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レバノン共和国についての情報


レバノン共和国(レバノンきょうわこく)、通称レバノンは、西アジア・中東の国。首都はベイルート。シリアとは北東に接している。イスラエルの北に位置し、西は地中海に面している。

レバノン共和国
レバノンの国旗 レバノンの国章
(国旗) 国章
国の標語 : なし 国歌 : Koullouna Lilouataan Lil Oula Lil Alam(「我ら全ては我が国のため、我が栄光と国旗のため」) レバノンの位置
公用語 アラビア語
首都 ベイルート
最大の都市 ベイルート
元首
大統領 ミシェル・スライマーン
首相 フアード・シニオラ
面積
総計 10,400km(161位)
水面積率 1.6%
人口
総計(2004年) 3,777,218人(123位)
人口密度 363人/km
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年) 31兆2,040億レバノン・ポンド
GDP(MER)
合計(2005年) 206億ドル(79位)
GDP(PPP)
合計(2003年) 178億2,000万ドル(107位)
1人当り 4,800ドル
独立
 - 日付
フランスより
1943年11月22日
通貨 レバノン・ポンド(LBP)
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ccTLD LB
国際電話番号 961

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
  • 3 政治
    • 3.1 地方行政区分
  • 4 地理
  • 5 経済
  • 6 国民
  • 7 文化
    • 7.1 音楽
    • 7.2 食文化
    • 7.3 祝祭日
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク
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国名

正式名称は、アル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤ(アラビア語: 、ラテン文字転写 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah)。通称ルブナーン( Lubnān)。

フランス語表記は、République libanaise。通称、Liban。

公式の英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。

日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。

歴史

1975年から1990年代にかけての詳細はレバノン内戦も参照

古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り植民地を形成した。その後勢力が弱体化し、アッシリア帝国に飲み込まれた。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。古代末期にはローマ帝国に征服され、中世にはイスラム世界に組み込まれた。

レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教のマロン派、イスラム教のドルーズ派がレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。

第一次世界大戦後、フランスの委任統治下に入り、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンとなった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が35%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。

第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融・観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートはリゾート地としてにぎわっていた。しかしPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生した(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが、イスラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

2005年2月14日にレバノン経済を立て直した反シリア派のラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺、政情は悪化し、政府と国民との軋轢も拡大した。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であると目される)シリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙では、シリアの威嚇にも関わらずハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラ等から六人の親シリア主義者閣僚を受け入れざるを得なかった。

2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にカナが空爆され54人が死亡する。イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が停戦決議(国連安全保障理事会)受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍が撤収した。

この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・ジュマイエル産業相(マロン派)が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロルが増大した。

さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。

こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。

政治

憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められている。キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンナ派は27人、イスラム教シーア派は27人などである。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例となっている。

地方行政区分

詳細はレバノンの県を参照

レバノンの地図

レバノンは6つの県 (mohafazah) に分かれる。

主要都市

地理

詳細はレバノンの地理を参照

西に地中海、南にイスラエル、その他はシリアに囲まれている。面積は1万平方km。 イスラエルとは79Km、シリアとは375Kmにわたって国境を接している。

経済

レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、「中東のパリ」とも呼ばれた。レバノン人は投資家、商人として南米や独立間もないアフリカ諸国に渡航し、現地に地歩を築いている。内戦によって金融セクター、主要交通路としての地位が失われた後、投資家、商人からの送金が国の財政を支えている。

ベイルートは日本からヨーロッパへ向かう日本航空の南回りヨーロッパ線の寄港地としても利用されたが、内戦の激化と飛行機の性能向上などの理由で運行が停止され、中東の玄関口としての役割は失われていった。内戦後の経済復興を進めるレバノン政府は、ベイルートを再び観光地として売り出す計画を進めている。

国民

全人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。かつてフランスの影響を強く受けた関係から、現在でもフランス語が広く通用する。

国民の約30%がキリスト教、約70%がイスラム教の信者。「キリスト教」はマロン派(東方典礼カトリック教会の一つ)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ラテン典礼のカトリックなどもある。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。

アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア正教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持、と主張、事実ファランジストなどとは距離をおいていた)。

また、「イスラム教」にはスンナ派、シーア派、アラウィー派、ドルーズ教などを含む。アラウィー派とドルーズ教が「イスラム教」の枠に入るものかどうかは、宗教的には議論が分かれるところであるが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。

アラウィー派はレバノン独立時にはレバノンの政治構成要素ではなく、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内意識、同胞意識を有していない。アラウィー派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。アラウィー派は、シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、レバノン北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきた。しかし、それでもレバノン国内で国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、アラウィー派に2議席があてがわれた。

少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。

文化

音楽

レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとのつながりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。

中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、レバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。

食文化

本記事:レバノン料理

地中海世界の食文化のひとつであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
政府 日系機関 メディア 旅行 その他

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