| (国旗) | (国章) |
| 公用語 | モンゴル語 | ||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 首都 | ウランバートル | ||||||||||||||||||||
| 最大の都市 | ウランバートル | ||||||||||||||||||||
元首
|
|||||||||||||||||||||
| 独立 - 日付 |
中華民国より 1921年7月11日 |
||||||||||||||||||||
| 通貨 | トゥグルグ(MNT) | ||||||||||||||||||||
| 時間帯 | UTC (+7 ~ 8)(DST: (+8 ~ 9)) | ||||||||||||||||||||
| ccTLD | MN | ||||||||||||||||||||
| 国際電話番号 | 976 | ||||||||||||||||||||
モンゴル国(モンゴルこく)は、中国の北、ロシアの南に位置する、東アジアの国。内陸国。首都はウランバートル。
モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下において中国語で外蒙古(がいもうこ、そともうこ)とよばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。これに対し、南部の一帯がかつての内蒙古で、現在は中国領となっており、「蒙古族」(中国国籍のモンゴル人)のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置かれている。
目次
|
正式名称はМонгол Улс (キリル文字表記。ラテン文字転写ではMongol Uls)。
日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。
モンゴル語名「モンゴル・オルス」のモンゴルは民族名で、オルス〜ウルスは「国」を意味する。モンゴルの民族名の語源は明らかではないが、モンゴル民族のアイデンティティーの基礎が出来上がったのはチンギス・ハーンのモンゴル帝国時代と考えられる。
詳細はモンゴル国の歴史およびモンゴルを参照
20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚えてはいたが、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。
1911年に辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト八世をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内蒙古の大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシアが中国への配慮から、内蒙古からの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。
1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。
1917年、ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には自治を撤廃するが、1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ八世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した。こうして立憲君主制国家としてスタートすることになった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ八世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノらブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。
モンゴル人民共和国は、1924年-1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある。)。1929年-1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。なお、モンゴル人民革命党は共産党であったことは一度もなく、「モンゴル共産党」への改名申請を時期尚早としてソ連に却下された経緯がある。
モンゴルのスターリンと呼ばれ軍人スフバートルと共に革命の中心メンバーの一人であり、1930年代より指導者であったチョイバルサンは1930年代後半から仏教徒、親ソ派に対立する政治家、文学者などを日本帝国主義のスパイ等の理由をつけ粛正し、コミンテルンの指示でモンゴル語からモンゴル文字を廃止しキリル文字使用を決めるなどした。チョイバルサン時代にスパイとして粛清された人物としてはゲンデン首相が有名である。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。
近代のモンゴルと外国との戦争は第二次大戦中、1939年に現在の中国領であるノモンハン(モンゴル語ではハルヒンゴル/ハルハ河)で日本軍・満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行ってないが中国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。
1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により当初の趣旨が曲げられ、アメリカ型の極端な資本主義の導入につながったとの見解もある[要出典]。資本主義化後15年を経過した現在では、貧富の差の拡大が国家的問題となっている。また社会主義時代から官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
社会主義時代、帝国主義的として教育が禁じられたかつての皇帝チンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどであり、その英雄視はある意味で過剰とも見られるが、社会主義時代に全く省みられなかったチンギスハン時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。
社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史をもつ国家大会議との関係は微妙である。
詳細はモンゴルの行政区画を参照
日本の県にあたるアイマグ (аймаг, aimag) が21設置されており、県には郡にあたるソム (soum) が347、更にその下に村にあたる1681のバグ (bag) が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50-100家族ほどで構成されている。(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。
東アジアの中心に位置し西には標高4,300メートルのアルタイ山脈と標高3,500メートルのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000メートル〜1,500メートルの高原が広がり北東には針葉樹林がひろがる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000メートルのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖に注ぐセレンゲ川と太平洋にそそぐヘルレン川がある。
主に畜産業と鉱業が中心でモリブデンは世界屈指の埋蔵量をもっている。現在、モンゴル政府は金鉱や銅鉱、モリブデン、石炭等の開発を推進している。そして近年では、豊富な天然資源などを目的に外国からの投資が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性が未だに構築されておらず、政権が変わる度に、その政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせてりる。畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80%である。畜産は、そのほとんどが移動牧畜、つまり遊牧で行われている。
ソ連崩壊による経済的混乱及び寒波により、都市部には数千人規模のホームレスとなった孤児がいる。冬は気温が-40度を下回ることもあるウランバートルなどでは路上で生活することが出来ず、孤児はマンホールから地下に潜って、生き延びているという[2]。
詳細はモンゴル国の国民を参照
モンゴル人の主な宗教はチベット仏教で、歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。多くの国民は、人種的には日本人と同じモンゴロイドで、いくつかの遺伝形質の傾向が一致し、モンゴル語と日本語が文法的に比較的似通っていることから、日本人のルーツに近いという説もある。旧石器時代の氷河期に当時陸で繋がっていた間宮海峡や宗谷海峡を通ってモンゴル人の祖先が日本列島にも入ってきたという説も有力である。モンゴルでは、フブスグルなど一部の地域をのぞき、魚を食べる習慣がなかった。
西部のバヤンウルギー県はカザフ人(イスラム教徒)が人口の大半を占め、学校教育もカザフ語とモンゴル語で行われる。モンゴル国憲法は、モンゴル語を唯一の公用語と定めており、本来はバヤンウルギー県においても、行政・議会など公的な場面でのカザフ語の使用は認められていない。しかし、公文書はモンゴル語で作成されるものの、実際には同県の少数者であるモンゴル人の多くもカザフ語を話し、カザフ語が議会を含むあらゆる場面での共通語となっている。
北部のフブスグル県には、ツァータンと呼ばれる、トナカイ遊牧と狩猟、採集、漁労を行う部族が300人前後居住している。モンゴル人のゲルとは違った円錐形の移動式家屋「オルツ」に住み、トゥバ語とモンゴル語を用いるが、トゥバ語話者は減少している。ツァータンはモンゴル人の使う他称であり、自らは「トゥバ人」「タイガ(針葉樹林帯)の人」などと名乗っている。この周辺の針葉樹林帯を行き来していた人々のうち、20世紀初頭にモンゴルからトゥバが分離することになった際にモンゴル側にいた人々がモンゴル国民となり今に至っているといわれている。
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元旦 | Шинэ жил | |
| 1月下旬から2月の内2日間 | ツァガーン・サル | Цагаан сар | 旧暦元旦 |
| 3月8日 | 女性の日 | Эмэгтэйчдийн баяр | 国際女性デー |
| 6月1日 | 子供の日 | Ххдийн баяр | 国際児童デー |
| 7月11日、12日 | ナーダム祭り | Наадам | |
| 11月26日 | 独立記念日 | Улс тунхагласны баяр | 1924年モンゴル人民共和国成立記念日 |
|
|
|
|---|---|
| 東アジア | 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 中華人民共和国 | 日本 | モンゴル |
| 東南アジア | インドネシア | カンボジア | シンガポール | タイ | 東ティモール | フィリピン | ブルネイ | ベトナム | マレーシア | ミャンマー | ラオス |
| 南アジア | インド | スリランカ | ネパール | パキスタン | バングラデシュ | ブータン | モルディブ |
| 中央アジア | ウズベキスタン | カザフスタン | キルギス | タジキスタン | トルクメニスタン |
| 西アジア | アゼルバイジャン | アフガニスタン | アラブ首長国連邦 | アルメニア | イエメン | イスラエル | イラク | イラン | オマーン | カタール | キプロス | クウェート | グルジア | サウジアラビア | シリア | トルコ | バーレーン | ヨルダン | レバノン |
| その他 | アブハジア | 北キプロス | 中華民国(台湾) | ナゴルノ・カラバフ | パレスチナ | 南オセチア |
| 地域 | イギリス:アクロティリ・デケリア | オーストラリア:クリスマス島 - ココス (キーリング) 諸島 | 中華人民共和国:香港 - マカオ |
「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国、あるいは独立主張をしている国。国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
|
|
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。