| (国旗) | (国章) |
| 公用語 | ポーランド語 | ||||||||||||||||||||
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| 首都 | ワルシャワ | ||||||||||||||||||||
| 最大の都市 | ワルシャワ | ||||||||||||||||||||
元首
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| 独立 | ロシア帝国から 1918年11月11日 |
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| 通貨 | ズウォティ(PLN) | ||||||||||||||||||||
| 時間帯 | UTC +1(DST: +2) | ||||||||||||||||||||
| ccTLD | PL | ||||||||||||||||||||
| 国際電話番号 | 48 | ||||||||||||||||||||
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)、通称 ポーランドまたはポルスカは、中欧の国。
10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成。その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割され消滅。第一次世界大戦後の1918年に独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割された。戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活。1989年に民主化を果たして共和国となる。
冷戦時代はソ連の影響下におかれたために政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから中欧または中東欧として再び分類されるようになっている。首都はワルシャワ。
ポーランドの北にはバルト海が広がり、北東ではロシアの飛地であるカリーニングラード地方とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。
目次
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正式名称はポーランド語で、Rzeczpospolita Polska(ポーランド語: ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称、Polska。略称は、RP。
公式の英語表記は、Republic of Poland。通称、Poland。
日本語の表記は、ポーランド共和国。通称、ポーランド(波蘭)、略語は波。
ポーランドの国名につく「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。
すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。
「共和国」に相当するRzeczpospolita(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味するラテン語のres publica(レス・プブリカ)の翻訳借用である。res(レス)には「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではrzecz(ジェチュ)がこれにあたる。publica(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語ではpospolita(ポスポリタ)にあたる。
さらに、ポーランド人は自国のことをポルスカ(Polska)と呼ぶほかにレヒア(Lechia)とも呼ぶ。ポラン族の別称である「レフ人/レック人(Lechici)」の国という意味である。
2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%がポーランド人である。かつては多民族国家であったが、第二次世界大戦当時のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ単一民族国家となった。その他の少数派としては、ウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人(主に東部に在住)、ドイツ人(主に旧ドイツ領の西部に在住)、ユダヤ人がいる。少数民族のなかではドイツ人が圧倒的に多く、国会の下院(セイム)において最高2議席の民族優先枠が設けられている(ただし前回の総選挙では獲得投票が少なかったため、現在は1議席のみ確保)。
国語はポーランド語。ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア等で用いられるキリル文字ではなく、ラテン式アルファベットでなされる。
冷戦時代に東側に組み込まれたため、現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解すが、若い世代においては英語が圧倒的な人気を獲得している。英語は小学校1年からの履修科目となっている。また、第二外国語としてドイツ語やフランス語を学ぶ学生も多い。ロシア語の履修者数も最近徐々に回復してきた。
近年は日本語ブームであり国立大学の日本学科(ワルシャワ大学、クラクフ大学、ポズナニ大学)の入学および卒業は非常に狭い門となっている。そのほか、グダニスク大学など国内の多くの国立・私立の大学に日本語の講座があり選択科目として履修できる。
米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いており、ポーランド・カトリック教会が存在する。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。そのほか、プロテスタント、正教会、ユダヤ教会、浄土真宗やチベット仏教をはじめとした仏教の信者もわずかながら存在する。
ポーランド人の苗字トップ20(2002年)は以下のとおり。
ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上にのぼり[1]、世界的にもユニークといわれる。ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。
詳細はポーランドの歴史、ポーランド王国を参照
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。
4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族(Burgunden)の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿地帯(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿地帯が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)のラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀までには現在のポーランドの地にスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始した。
966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wisłanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を次ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年こんどは西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシニェ)の講和(Peace of Bautzen)によりマイセン(ポーランド語でミシュニア)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
1025年、ボレスワフ1世の死の直前にローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。
ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は混乱を収拾し王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位についた。
クラクフ大公領
シロンスク公領
マゾフシェ公領
ヴィエルコポルスカ公領
サンドミェシュ公領
后の相続領
ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領
ボレスワフ2世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ1世ヘルマンにはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ1世ヘルマンは国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世)からの援助を得る見返りに当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえシロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。
以後もクラクフ大公の位は継続したがその権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま各地の領邦にどんどん分裂していった。
1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。
ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
1295年、プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位し、ポーランド再統一を完成させた。
14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1364年、カジミェシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニアの大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討ち、ドイツ騎士団領をポーランド王の支配下に置いた[2]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団領はポーランド=リトアニア連合に隷属する状態となった。
1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(Paweł Włodkowic)画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。
1430年にリトアニア大公のヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。
1543年、ミコワイ・コペルニック(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。
1569年、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合の「ポーランド=リトアニア連合王国」となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア連合王国は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。
1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。以後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
1592年、ポーランド=リトアニア連合王国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の首都であったクラクフに居を構えた。1596年にはワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。スウェーデンでは叔父で摂政を務めていたカールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことからロシア正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、住民蜂起が起きたため1612年に撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。
1683年にオスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲を撃退し全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、王国中央政府の権力を強めるため世襲王政を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。
18世紀後半にはポーランド=リトアニア連合王国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。
1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制とともに、世界初の立憲君主制が成立し、ポーランド=リトアニア連合王国は単一国家の「ポーランド王国」となった。1793年、議会によりワルシャワに国家教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省とされている。立憲君主制、すなわち民主主義に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はエカチェリーナ2世と結託した。ロシア帝国軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユーゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチューシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。
1807年、ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(これをもとにしてアンジェイ・ワイダ監督が製作した映画『パン・タデウシュ物語』)と、池田理代子の漫画『天の涯まで−ポーランド秘史』はこの時代を扱っている。
ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入ようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、革命のエチュードを書いた。
1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった[3]。
1871年からは、プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン公国では、ビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人であるかどうかを問わずプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を相手にしたものであるが、ポーランド人の圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。しかしこの抑圧に対するポーランド人の抵抗は頑強で、ポーランド人はドイツによる抑圧に対してはポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。
1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ(Żywiec)に住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国皇室の大公カール・シュテファン(Karl Stephan、ポーランド名カロル・ステファン・ハプスブルクKarol Stefan Habsburg)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇室の家長であるオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住みつづけ、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人としていまもガリツィア地方に住んでいる[4]。)
1918年に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。
1919年にはソヴィエト連邦との戦争に突入した。翌年、ポーランド軍はワルシャワに迫った赤軍を撃退しこの戦争に勝利した。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。
1939年8月、ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始し、ポーランドをドイツ、ソ連、リトアニアの三国で分割占領した。ポーランド政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。
1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、英・米・ソのヤルタ会談に基づいて国境が定められ、領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド東部を自国に併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。
この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去されられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。
一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民がソ連に財産を国有化されたため、120万人が退去してポーランドに移住してきた。
終戦後は、ソヴィエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソヴィエト連邦と東ヨーロッパの共産圏で、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。社会主義国となって東西冷戦に巻き込まれた。
しかしソヴィエト連邦の支配する体制による抑圧と搾取に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
1989年、民主化が完全に実現し、自由選挙が行われ、社会主義政権は下野した。
1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランドが1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。
1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。
1999年、NATOに加盟した。
2004年5月1日、欧州連合(EU)に加盟した。
2005年、欧州連合(EU)に懐疑的で、経済における自国民の利益と社会におけるカトリック的価値を最優先に掲げたカトリック系保守政党「法と正義」が総選挙で勝利し、極右系小政党「自衛」「ポーランド家族連盟」とともに保守・極右連立政権を発足させたが、その極端な右翼政策と強硬外交はポーランド国民の失望と反発を買い、2007年9月7日に議会は解散した。
この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)の強化に積極的で、カトリック的価値観を尊重しながらも行政・経済・社会・司法の改革を標榜する中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収め、もう一つの中道右派政党「ポーランド国民党」とともに、「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクを首相とする新政権を発足させた。
2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。
2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。
現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
詳細はポーランドの政治を参照。
政治体制 - 共和制。
国家元首は大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。
行政は首相が統率する閣僚会議(内閣)が担う。大統領は、議会の下院に当たるセイム (sejm) の大多数の連合から、首相の提案によって内閣を指名する。首相は強大な政治的権力を有している。現在の首相はドナルド・トゥスク。
立法は二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。
下院(セイム、Sejm) - 、定数460名、比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。 各党の議席数(定数430):国際連合(UN)、ヨーロッパ連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)、といった地域国際機関にも加盟している。
詳細はポーランドの地方行政区画を参照
1999年に行われた県 (województwo) の大統合によって、ポーランドではそれまであった49県が16県にまでまとめられた。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。
(アルファベット順)
(アルファベット順)
ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームから成る土壌によるものである。氷河期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。クラクフ=チェンストホヴァ高原は地球上で最も古い山地帯の1つである。
バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。
機械、鉄鋼、化学製品、造船、食品、繊維などの工業が主。戦後、東側諸国に組み込まれ、共産主義化が進められ工業は国有化された。1970年代以降、ギエレク政権は西側諸国との経済協力による経済成長を目指し、70年代前半には高度成長を実現したが、オイルショックにより成長は減速した。その後、労働者の賃上げストライキなど社会主義経済が限界に達し、1989年社会主義を放棄、市場経済化を進めている。1996年には経済協力開発機構(OECD)への加盟を実現した。
ポーランドは35歳以下の人口が全体の50%を占め、25歳以下は全体の35%を占める、若者の非常に多い国であり、このことが経済に好影響を与えている。また、大学進学率はヨーロッパ最高レベルであり、教育水準が非常に高いことは特筆に価する[5]。こういったことにより、政治の混乱がみられた2005年9月から2007年10月にかけても経済のダイナミズムが失われることがなく、力強い経済成長を遂げている。
近年はGDP成長率が高く、2006年は5.8%、2007年は6.6%[6]であった。今後も高成長を維持すると予測されており、国内インフラの整備の急速な進展[7]にあわせて国内経済は本格的な成長軌道にのったものと考えられている。ただし2008年に関しては、2007年のサブプライム・ショックに伴なう世界同時株安および世界的な一次産品価格上昇の影響で、2007年に比べ経済成長率はやや低め、インフレ圧力は強めになるのではないか、と予想されている。
急速な経済発展に伴う物価上昇を抑制するためポーランド国立銀行は2007年に5回の政策金利引き上げを行った。2008年もすでに4回の引き上げをしており、2008年6月25日現在の政策金利は6.00%である。このようにポーランド・ズウォティは高金利通貨となっている。ズウォティは2004年3月には1ズウォティは約27円であったが、2008年6月には約50円まで上昇している。これによってポーランド人の購買力は劇的に上昇している。
2008年現在、ポーランドでは全世帯の30%強にブロードバンドインターネット接続が普及しているが、これは欧州連合(EU)の平均34%を下回っている。ポーランド政府は2010年末までに国内全世帯の50%はブロードバンドインターネット接続を普及させることにした。特にマウォポルスカ県では重点措置が採られ、2010年末までに県内の世帯と県の施設の90%以上にブロードバンドインターネット接続を普及させることにしている[8]。
上記のようにブロードバンドインターネット普及率は突出して高いわけではないが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)である「nasza-klasa.pl(わたしたちのクラス)」[9]には約1200万人が加入している[10]。全国民(約3700万人)のおよそ3人に1人がこのサービスを利用していることになり、驚異的なインターネット利用者大国といえる。
2008年5月現在、ウィキペディアの記事数では英語、ドイツ語、フランス語に続いてポーランド語が第4位。ポーランド語につづく5位が日本語である。ポーランドの人口(約3700万人)やポーランド語話者数(約5000万人)を考えるとこれも驚異的といえる。
世界的にも非常に高い教育水準[11]に加えて、中東欧地域でも突出して規模の大きい国内市場(ポーランドの人口とGDPは、2004年にEUに新規加盟した10カ国の半分以上を占める)と西方のEU域内や東方のロシア勢力圏(CIS諸国)への基点となる地の利を見込んで、世界各国からポーランドへの直接投資も近年非常に盛んになっており、直接投資総額は2006年は1年間で150億ドルを超えた。2006年はルクセンブルクからの投資がもっとも盛んで、ドイツ、イタリア、オランダ、イギリス、スペインがそれに続いた[12]。
日系企業の進出が増加しており、2006年の日本からの直接投資額は10億ドルを超えた。ポーランド情報外国投資庁(PAIiIZ)[13]によると、2006年10月現在で、日本からの投資予定案件が30件以上あるとされている。なおポーランドへの直接投資の窓口は、このポーランド情報外国投資庁に一本化されている。
研究開発部門の集中ポーランドでは労働コストが比較的低いことや市場としての魅力からこれまで外資系企業は生産拠点としての「工場」をポーランド国内に建設・拡張する投資をしていたが、近年はその高い教育水準と良質の労働力に注目し、企業の中核となる研究開発ハブとしての拠点を建設・拡充する投資が盛んになっている。
2007年現在、ポーランド国内にはシーメンス、アセア・ブラウン・ボベリ(ABB)、インテルといった外資系の研究開発センターが40も設立されており、4500人が働いている。これは旧東欧諸国では最大規模である[14]。
しかし、日系資本はポーランドに対してはいまだ生産拠点と建設するにとどまっており、欧米資本に比べてポーランド進出の投資額では負けていないが、投資の「質」は大きく劣っている。これは日系企業トップのポーランドに関する知識が欧米資本のそれに比べて非常に貧弱で、さらには彼らがポーランドに対して事実に基づかないある種の深い偏見を抱いており、ポーランドを単なる「安い労働市場」以上に認識することをはじめから拒絶しており、ポーランド人が技術開発に携わるような投資を行うことに対して否定的になっていることも原因となっている。
近年、西部国境近くのポーランドの小規模資本が国境の向こう側のドイツへ進出している。ポーランド西北部の都市シュチェチンに隣接するドイツ最東部はドイツの中でも最も貧しい地域で、インフラは老朽化し、過疎化が進み、失業率は25%近くにも達し、極右政党であるドイツ国家民主党(NPD)の強固な地盤であったほど人心が荒んでいた。一方、隣接するシュチェチンはポーランドでももっとも豊かな街の一つで、最新のインフラも整備され、失業率は低く、個人の収入も高く、経済教育が盛んで企業家精神の非常に旺盛な地域。シュチェチンの人々は隣接したドイツの地域を、地価が安い割には大市場のベルリンからもそう遠くない格好の投資先として発見した。地価はシュチェチンに比べて20%も低い。ポーランド人はこの地域のそれぞれの街に土地を買い、家を建て、会社を興し、ドイツ人を雇い、ドイツのこの地方の経済に多大に貢献している。この地域のNPD党のリーダーはこれまでポーランド人を憎む貧しいタイル張り職人であったが、現在はポーランド人のために建設している家やオフィスで仕事を得て暮らし向きがよくなって来ている。シュチェチンの若者は自分の野心を満たすためにこういったドイツの街に行って事業を起こすようになっている。
社会主義から資本主義への体制変換に伴って生じた経済混乱によって1990年代半ばに約30%という途方もない失業率を記録したポーランドは、その後の経済改革が功を奏し、2008年6月の失業率は7.3%と、劇的に改善している[15]。特にここ数年の失業率低下のスピードは驚異的である。2008年4月末現在でポーランド人の平均給与額は3,138PLN($1,442)である[16]。
EU諸国での就労2004年5月にポーランドがEUに加盟すると同時にイギリス、アイルランド、スウェーデンが自国の労働市場をポーランド人に開放し、ポーランド人がこれらの国で自由に働くことができるようになった。現在イギリスには100万人、アイルランドには50万人、スウェーデンには数万人のポーランド人が出稼ぎに行き、投資銀行やメーカーといった大企業幹部、開業医から配管工や電機修理工、ホテルのスタッフからカフェのウェーターまで幅広い職種でポーランド人が働いている。
イギリスでは公共の図書館がポーランド語の本や雑誌や新聞をそろえ、ポーランド人コミュニティはポーランド人向け新聞を発行している。またイギリス全土に何百ものポーランド料理レストランが開業するようになり、イギリス人がポーランド名物のソーセージ(キェウバーサ、英語読みではキールベイサ)などに親しむようになった。
現在、ドイツ、オーストリア、デンマーク、ベルギーの4ヶ国を除く全てのEU加盟国はポーランドに対し労働市場を開放しているが、2009年からはデンマークとベルギーがポーランドに対して労働市場を開放することを予定しており、ドイツとオーストリアのみが2011年4月30日まで一定の制限措置を維持することになる見込みである[17][18][19]。
出稼ぎ労働者から企業家へ労働者としてだけでなく、経営者としても多くのポーランド人が活躍し、移住先の経済に貢献している。たとえばイギリスでは2007年の1年間だけでもポーランド人オーナーの企業が4万社も設立されている[20]。もともとポーランドは教育熱心な国で伝統的に大学進学率や卒業率が非常に高く[21]、外国で働くポーランド人の多くはすでに高等教育や職業専門教育を受けているのであるが、現地の商習慣や言語に対する不慣れが原因で移住先では出稼ぎ労働者として単純労働につくしかなかった。博士号を持つ者や医師や弁護士といったいわゆるエリートの人々が、出稼ぎ先ではお金を稼ぐために野菜の収穫作業、道路工事、ハウスキーパー、ベビーシッターといった仕事に就くケースが多かった。彼らは消費を切り詰め最低レベルの家に住み(ときにはホームレスとなりながら)熱心に貯金をして、英語が上達するとともに自ら会社を起こす傾向がある。イギリスではポーランド人企業家の親睦団体ができ機関誌を発行するなど、活発に活動している。ナショナル・ウエストミンスター銀行をはじめとしたイギリスの主要銀行もポーランド語の話せる行員を融資相談窓口に置くようになり、またポーランド語のパンフレットを作って配布するなどポーランド人企業向けの融資機会を広げている。ただし、母国ポーランドの近年の経済成長と、一方イギリスなど移住先の経済の停滞を見て、ポーランドに帰って起業しようと考えているポーランド人が増えていることも事実である。ポーランド政府も労働者だけでなく企業家をもポーランドへ呼び戻す努力をしており、イギリスの新聞や雑誌に頻繁に「ポーランドへ帰ろう!」という内容の政府広告を出すようになった。
祖国ポーランドへ帰還するポーランド人ポーランド人のイギリス流入は2007年12月をピークとしてその後は落ち込んでおり、逆にイギリスから故郷に帰るポーランド人の数がイギリスに流入するポーランド人の数を超え、イギリス国内のポーランド人出稼ぎ労働者が急減している[22]。一時期は100万人のポーランド人労働者がイギリスにいたが、すでにその半分の50万人が祖国ポーランドに帰ってしまっている[23]。
これはポーランド経済が好況で条件のよい就職の機会がどんどん増えていること、イギリスの経済が本格的な調整期に入ったため働きに来ても期待したほどの収入が得られないこと、ポーランドの急速な経済発展でイギリスの賃金がポーランドのそれと大差なくなってきたこと、イギリスの生活コストが高いこと、通貨を比較するとイギリスポンドがポーランドズウォティに対して長期下落していること(1イギリスポンドはポーランドがEUに加盟した2004年5月は約7ズウォティだったのが、2008年4月現在では約4ズウォティ)、イギリスに来ていたポーランド人がもう十分に貯金したこと、イギリス滞在で英語能力、英語圏の習慣、ビジネスのノウハウを充分に身につけたこと、ポーランドで家を買って住んでポーランド国内で子供に教育を受けさせたほうがいいと考えていること、ポーランド経済の順調な発展で祖国ポーランドで働くならばイギリスで外国人として働くよりもはるかに社会的地位の高い仕事に就くことができること、家族の構成員が長期の出稼ぎに出ることはよくないと考えていること、などさまざまな理由が一度に重なったものである。[24][25][26][27]ポーランド政府も労働力と頭脳を祖国に引き戻そうと本格的に動き出した。2008年春からポーランド政府は、外国へ働きに出ているポーランド人の帰国を促す大々的なキャンペーンを展開している[28][29]。
ポーランドの主な工業部門は鉄鋼、機械部品、電機、電気部品、家電、石油化学、自動車、兵器、航空機、造船、繊維、食品加工である。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。このほか化粧品や洗面用具、医療器具、医薬品なども比較的盛んに生産されている。
ポーランドは最終製品よりも部品や素材などといった資本財の輸出が多く、消費財の輸出があまり目立たないが、消費財の輸出に関しては、スーツなど紳士服のブランド「ビトム(Bytom、英語ではバイトムと読む)」[30]、天然スキンケア化粧品の「AAオーシャニック(AA Oceanic)」[31]と「ジャーヤ(Ziaja)」[32]、「クラクス(Krakus)」 [33]など複数のブランドを持つ加工食品その他の「アニメックス(Animex)」グループ[34]、ビールの「ジヴィエツ(Żywiec)」[35]と「オコチム(Okocim)」[36]、ズブロッカやスピリタスをはじめとした蒸留酒の「ポルモス(Polmos)」グループ[37][38][39][40][41]、石油製品販売の「PKNオルレン(PKN Orlen)」[42]のガソリンスタンド網、「ソラリス(Solaris)」[43]のバスなどは国外でも積極的に事業展開しており、これらのブランドは欧米を中心に一般消費者の目に留まることが多い。
工業製品の対日輸出日本へは瓶詰め食品、菓子、酒類といったポーランドの加工食品、船舶、ピアノ(カリシア社)、グライダー(PZL社)などがこれまでに輸出されているほか、ポーランド国内で生産されている自動車(ポルスキ・フィアット社)のフィアット500も輸出が開始され、2008年3月15日より日本国内での販売が開始されている。
ポーランドの農業は第二次世界大戦によって壊滅的な被害を受けた。農地の1/3が失われたことはもちろん、豚の5/6、牛と羊の2/3が殺されている[1]。さらに主要な農産地が戦後、ソ連の領土となった。
ポーランドは21世紀の現在も農業国である。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%(2003年、以下、United Nations Statistical Yearbook 2002による)に達し、農業従事者は407万人である。ただし、労働力人口に占める農業の比率は、1948年時点の53.5%に比べ、1991年には26.7%まで低下している。約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化されなかった。小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。
国土が温帯と冷帯の境界に位置すること、降水量が少ないことを反映して、麦類の栽培が盛んである。中でもライ麦の生産は世界第2位(336万トン、シェア21.7%)、えん麦は世界第5位(131万トン、5.5%)に達する。ただし小麦の生産量(856万トン)は国内需要を満たすに至らず、輸入している。同じく寒冷地に向くばれいしょ(世界第7位、1101万トン、3.4%)、てんさい(世界第7位、1097万トン、4.6%)。このほか、有力な農産物は、りんご(世界第7位、205万トン、3.4%)、キャベツ(世界第8位、140万トン、2.0%)、なたね(世界第7位、143万トン、3.0%)、ホップ(世界第5位、3355トン、3.3%)、亜麻(世界第10位、1万10000トン、1.2%)。
特筆すべきは生鮮(非冷凍用)イチゴ(世界第1位、20万トン)である。冷凍用イチゴもさかんに輸出されており、生産されるイチゴの60%は冷凍用で、輸出高では世界1位の8400万ドルに達する。
また、各種ハーブの栽培も盛んで、食材として、あるいは薬用として広く生産されている。
変わったところでは、エスカルゴの飼育がある。現在フランスで消費されるブルゴーニュ種のエスカルゴの大半はポーランド産である(フランスで消費されるエスカルゴのうちフランス産は全体の2%にすぎない)。しかしポーランドではエスカルゴを食べることは一般的ではない。
畜産業では豚(世界第7位、1811万頭、1.9%)が主力、農業政策では豚・羊に重点が置かれていたが、近年は牛や馬にも力を入れている。精肉や加工品は欧米を中心に広く輸出されている。
農産物の対日輸出特に馬肉は対日輸出が盛んで、日本で消費される馬刺し用馬肉の60%がポーランド産である。日本ではポーランド産馬肉は臭みがなく、甘みがある脂の刺しがきれいに入った霜降りの良質の馬肉として評価されている。
他に対日輸出の盛んな農産物としては羽毛布団用の高級グース羽毛がある。
また、ポーランドは牛肉や豚肉、それらの加工品の対日輸出に、国策として取り組む意向。
ポーランドは鉱物資源に恵まれた国である。石炭を中心とした有機鉱物資源、亜鉛、銅、鉛といった重要な非鉄金属が豊富なことが特徴である。
有機鉱物資源では、世界シェア第7位(2.8%)の石炭(1.0億トン、2002年)と、燃料などに用いる亜炭(同7位、6.5%、5955万トン)が豊富である。可採埋蔵量は石炭203億トン、亜炭19億トンであり、枯渇の心配もない。ヨーロッパではロシアに次いで石炭が豊富である。少量ではあるが、原油(77万トン)、天然ガス(162千兆ジュール)も採取されている。天然ガスは、輸出するほど大量には産出しないが、それでも国内消費の3分の2をまかなっている。
金属鉱物資源では、世界第8位 (6.0%) の銀鉱(1200トン)、同9位 (3.7%) の銅鉱(50万トン)、同9位 (1.8%) の鉛鉱(5.3万トン)、同10位 (1.8%) の亜鉛鉱(15万トン)のほか、金とマグネシウム鉱を産出する。
そのほかの鉱物資源としては、イオウ(122万トン、世界シェア2.1%)と岩塩(420万トン、世界シェア2.0%)を採掘する。岩塩の採掘孔はヴィエリチュカ岩塩鉱(マウォポルスカ県)など観光資源としても活用されている。
詳細はポーランドの食文化を参照
ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。しかし、歴史的に多くの民族が集う地域であったため、周辺のさまざまな民族の食習慣を取り入れてポーランド文化に同化しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。
過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし朝食と夕食は軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。
ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角いアパート群が多いことである。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして使い勝手はいい。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。
ワルシャワなどの大都市に関しては高度成長を背景に、複数の不動産開発業者がビジネス街に超高級マンション・オフィス・ホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の超高層ビルが新たに出現することになっている[44]。
一方、郊外および地方では、伝統建築の、あるいは伝統建築をモチーフにした美しい一戸建てが多く建てられてきており、古い建物も順次リフォームされ、こちらでは地域のコミュニティがよく発達している。
詳細はポーランドの教育を参照
1999年9月1日より、従来の社会主義時代からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
第二次世界大戦後のポーランド音楽の展開はポーランド楽派の項目を参照のこと。
詳細はポーランド人の一覧を参照
以下の人々はそれぞれの分野で日本でもよく知られている。
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コペルニクス |
キュリー夫人 |
コシューシコ |
ショパン |
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パデレフスキ |
ザメンホフ |
コルチャック先生 |
コルベ神父 |
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ヨハネ・パウロ2世 |
キェシロフスキ監督 |
ポランスキー監督 |
ワイダ監督 |
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シェンキェヴィチ |
スタニスワフ・レム |
レフ・ワレサ |
ロバート・クビサ |
詳細はポーランドの世界遺産を参照
ポーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。また、ベラルーシとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。したがって世界遺産は合計13件となる。
そのほかに現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
それぞれの観光地についてはポーランドの観光地および各県の記事を参照
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ポーランドには歴史的価値の高い街、建物、施設、景観が数多くある。とりわけ古都クラクフの旧市街にある中央広場(Rynek Głowny)は世界で最も美しい広場として評価されている[45]。
前述のとおり世界遺産の数は全部で13件あり(中東欧地域で最多)、さらに4件が暫定リストに登録されている。また自然環境もよく保存され、国立公園や県立公園が多数あって保護されており、ユネスコ生物圏保護区が9か所ある。
1989年12月25日までポーランド全土は冷戦体制のもとで東側諸国の重要な軍事拠点となり外国人に門戸が閉ざされていた。冷戦が終わってポーランドに駐留していたソ連軍が全面撤退してから約20年たち、現在では国内観光は完全に自由化されている。
ポーランドはいまだに日本のメディアに観光地として紹介されることが少ないが、「ヨーロッパのハートランド」[46]にあるポーランドは欧米諸国ではバカンス客からバックパッカー客まで幅広い層の観光客の間で人気を得ている。
また、国内のあらゆる地方に無数に存在する貴族の宮殿や城は近年次々とリフォームされ美しいホテルとして営業しており、これら「宮殿ホテル」や「城館ホテル」に宿泊しても西欧諸国よりはるかに割安に贅沢な旅行ができる。また、農家に滞在して農業体験をしたりゆっくりと一日を過ごしたりする「アグロツーリズム」も近年は盛んである。
2007年12月21日にはシェンゲン協定に加盟し、シェンゲン協定加盟国すべてとの往来がパスポートなしで可能となった。加盟国の間では国境のどこからでも出入りが自由となっている。
ポーランド観光市場は急速に発展しているが、EUの中では比較的国土面積の広い国であるため、欧米人の間では有名であってもまだ日本人にはほとんど知られていない観光地が多数ある。
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Nowy Rok | 新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休) |
| 1月6日 | 3人の博士の日 | Trzech Króli | 三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。 |
| 1月21日・1月22日 | おばあちゃんの日・おじいちゃんの日 | Dzień Babci・Dzień Dziadka | 21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日 |
| 移動祝祭日 | 脂の木曜日 | Tłusty Czwartek | 脂っこいものを食べる日。 |
| 移動祝祭日 | 復活祭 | Wielkanoc | 春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休) |
| 5月1日 | メーデー | Święto Pracy | (休) |
| 5月3日 | 「5月3日憲法」記念日 | Rocznica Konstytucji 3 maja | 1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで始めての憲法 (休) |
| 5月26日 | 母の日 | Dzień Matki | |
| 移動祝祭日 | 聖霊降臨の祝日 | Zielone Świątki | 復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休) |
| 6月1日 | 子供の日 | Dzień Dziecka | |
| 移動祝祭日 | 聖体の祝日 | Boże Ciało | 聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐を記念する。2007年は6月7日(休) |
| 6月23日 | 父の日 | Dzień Ojca | |
| 8月15日 | 聖母被昇天の祝日 | Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny | チェンストホーヴァ(Częstochowa)にあるヤスナ・グラ寺院(Jasna Góra)へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休) |
| 11月1日 | 諸聖人の日 | Wszystkich Świętych | 諸聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休) |
| 11月2日 | 死者の日 | Zaduszki | 祖先の霊を供養する日 |
| 11月11日 | 独立記念日 | Narodowe Święto Niepodległości | ロシアとドイツ,オーストリアからの独立を記念する日。(休) |
| 12月6日 | サンタクロースの日 | Mikołajki | Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。 |
| 12月24日 | キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ) | Wigilia Bożego Narodzenia | 教会でミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないというならわしがあり、伝統的に鯉を食べる。 |
| 12月25日〜12月26日 | キリスト降誕祭(クリスマス) | Boże Narodzenie | クリスマスの日。親戚や家族で集まる。 (休) |
| 12月31日 | シルヴェスターの夜 | Sylwester | 大晦日にあたるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。 |
※(休)は休日
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