| (国旗) | 詳細 |
| 公用語 | ハイチ語(クレオール語)フランス語 | ||||||||||||||||||||
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| 首都 | ポルトープランス | ||||||||||||||||||||
| 最大の都市 | ポルトープランス | ||||||||||||||||||||
元首
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| 独立 | フランスより 1804年1月1日 |
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| 通貨 | グールド(HTG) | ||||||||||||||||||||
| 時間帯 | UTC -5(DST: なし) | ||||||||||||||||||||
| ccTLD | HT | ||||||||||||||||||||
| 国際電話番号 | 509 | ||||||||||||||||||||
ハイチ共和国(ハイチきょうわこく)、通称「ハイチ」は、中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて南にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス。
アメリカ大陸二番目の独立国家であり、世界初の黒人による共和制国家でもあるが、独立以来現在まで混乱が続いている。
目次
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正式名称は、ハイチ語でレピブリク・ダイチ、フランス語で République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïti (アイティ)。
公式の英語表記はRepublic of Haiti 。通称、Haiti(ハイティ)。
日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。ハイチは Haiti のローマ字読みで、現地では通用しない。
ハイチは、先住民のタイノ族・アラワク族の言葉で「山ばかりの土地」を意味する。
詳細はハイチの歴史を参照
詳細はサン=ドマングを参照
1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク族(タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、先住民のカリブ族が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地経営をした。島の西部をフランスが1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Sant-Domingue) とした。この植民地は、多くのアフリカ人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビ・コーヒー栽培によって巨万の富を産みだした[1]。
詳細はハイチ革命を参照
1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)たちはその知らせを聞いて、1791年に蜂起した。トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。しかし、ナポレオンが本国から派遣した軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。
ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立宣言をし、ハイチ革命が成功した。デサリーヌは国名を先住民のつけた名であったハイチに変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し、残った白人を追い出した。彼は1805年に憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺される。ジャン=ジャック・デサリーヌは今日もハイチ建国の父として敬愛されている。
この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテン・アメリカ最初の独立国が誕生し、中南米の他の植民地の黒人たちや独立主義者たちを刺激した。しかし南北の共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革でプランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者、シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。一方、北部の共和国ではクリストフが王政を宣言。圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)を建設させるなどの波乱があったが、1820年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを再統一した。1821年、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国の独立を宣言し、コロンビア共和国への編入を求めて内戦に陥ると、ハイチは軍を進めてこれを併合し、以後1844年まで全島に独裁体制を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。結局ハイチは独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じる。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。
1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍フォースタン=エリ・スールークであり、大統領に就任したが後に帝政を宣言し、ファーブル・ジェフラール将軍の蜂起で打倒される1859年まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。
1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、1934年まで支配を続けた。この間アメリカをモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けた。
1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き1946年にはクーデターが起こりデュマルセ・エスティメが久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとしたが、改革はムラートと黒人との対立など国内混乱を招いた。1950年、エスティメは憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらによるクーデターで黒人エリート軍人、ポール・マグロワールによる軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956年末に彼はクーデターで打倒された。
1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュバリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれたが、翌1958年から突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させた。彼は戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年に彼は死去するが、そのあとを息子ジャン=クロード・デュバリエ「ベビー・ドク」が継いだ。国家財政が破綻しクーデターでデュバリエが追われる1986年までの長期に渡り、デュバリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。
1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティドが1991年に大統領に就任。しかし、同年、軍事クーデターにより、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連及びアメリカ合衆国の働きかけと圧力を受けて、政権を返上。アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領になった。
2004年に入って武力衝突が発生。2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線」が北部の町ゴナイーヴで蜂起した。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国に亡命し、アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入った。(この顛末については、アメリカの関与も指摘されている。)三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。しかしながら彼の政権は多くの諸国の承認を得るに至っていない。
詳細はハイチの政治を参照
大統領は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領のジャン=ベルトラン・アリスティドが92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領ルネ・ガルシア・プレヴァルが再び大統領に選ばれた。
首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。
議会は、両院制(二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期は4年。
詳細はハイチの行政区画を参照
ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (depatmen) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。2003年以降の県名と県庁所在地は、以下の通り。
詳細はハイチの地理を参照
ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島、トルチュ島、ヴァシュ島、グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。長年に渡る乱伐で山は禿山だらけになってしまっており、そのために保水力がなく、ハリケーンが通過すると洪水となって大きな被害をもたらす。
イスパニョーラ島には五つの大きな山脈が走る。中央山脈が島の中央を北西から南東方向に伸び、ドミニカ共和国側の南海岸からハイチの北西部(Massif du Nord マッシフ・デュ・ノール、北部山塊)に至る。この山脈には、島の最高峰で大アンティル諸島の最高峰でもあるピコ・ドゥアルテ(Pico Duarte、3,087m)がある。中央山脈の北に並行して、セプテントリオナル山脈(北部山脈)が、東のサマナ半島からドミニカ共和国の北海岸を走る。その最高峰はピコ・ディエゴ・デ・オカンポである。中央山脈とセプテントリオナル山脈の間はドミニカ共和国側はシバオ平原と大西洋海岸平野、ハイチ側では北部平野となっており、両国の農業地帯になっている。ドミニカ共和国の南東部にはより低い山脈、オリエンタル山脈が走る。
シエラ・デ・ネイバは中央山脈の南にあり、ドミニカ共和国南西から北西方向に伸び、ハイチ中部に至りゴナイーヴ湾に出る(ハイチではノワール山地などになる)。
南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。南部山脈とシエラ・デ・ネイバの間は低地であり、ハイチではクルドサック平野と呼ばれ、その西端にハイチの首都ポルトープランスがある。この低地には塩水湖が連なり、ハイチのソーマトル湖、ドミニカ共和国のエンリキージョ湖が代表的である。
詳細はハイチの経済を参照
ハイチは西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事している。1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいである。軍部はアメリカへの麻薬密輸で莫大な利益を得ていたとされる。
詳細はハイチの国民を参照
ハイチの平均人口密度は270人/kmであるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人とアフリカ人の混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。
公用語はハイチ語(クリオール語)とフランス語。ハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はクリオール語を話すが、フランス語は人口の10%位にしか話されない。最近では若者や経済層で英語の使用が増えている。
国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派、バプティストなどのプロテスタントや、少数ながらロシア正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系の宗教であるヴードゥー教の慣習も行っている。
6歳から11歳までの初等教育が無償とされているが、ハイチの識字率はアメリカ大陸で最も低い約56%程である。主な高等教育機関としてはハイチ大学(1920年)が挙げられる。
詳細はハイチの文化を参照
独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で特にジャン・プリス・マルスによって民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1940年代のマルチニークのエメ・セゼールによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。
詳細はハイチ料理を参照
ハイチ料理はアフリカ料理を基盤にフランスとタイノ族の影響を受けており、米や豆を多用する。また、カリブ海諸国の例に漏れずラム酒も広く飲まれている。
詳細はハイチ文学を参照
フランケチエンヌ、エミール・オリヴィエ、エドウィージ・ダンティカなどの作家が特に挙げられる。
詳細はハイチ音楽を参照
ハイチ特有の音楽ジャンルとしてはコンパや、ドミニカ共和国のメレンゲの影響を受けたメラングなどが特に挙げられる。
ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。
ハイチ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある。詳細は、シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園を参照。
詳細はハイチ人の一覧を参照
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