| (国旗) | 国章 |
| 公用語 | スペイン語 | ||||||||||||||||||||
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| 首都 | サント・ドミンゴ | ||||||||||||||||||||
| 最大の都市 | サント・ドミンゴ | ||||||||||||||||||||
元首
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| 独立 - 日付 |
ハイチより 1844年2月27日 |
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| 通貨 | ペソ(DOP) | ||||||||||||||||||||
| 時間帯 | UTC -4(DST: なし) | ||||||||||||||||||||
| ccTLD | DO | ||||||||||||||||||||
| 国際電話番号 | 1-809 | ||||||||||||||||||||
ドミニカ共和国(ドミニカきょうわこく)は、西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島東部に存在する国。 首都はサント・ドミンゴ。同島西部にあるハイチと国境を接する。小アンティル諸島内のドミニカ島にあるドミニカ国 と区別するため、共和国をつけて呼ばれる。大アンティル諸島で二番目に大きな島であり、モナ海峡を隔てて東にプエルト・リコが、西にキューバとジャマイカが存在する。
米州で最初にヨーロッパ人が恒久的に定住した土地であり、それゆえその後のスペインのアメリカ征服の根拠地となった。サント・ドミンゴは米州で最も早く建設された植民都市であり、それゆえ米州で初の大学、大聖堂、要塞が建設された。
目次
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正式名称はスペイン語で、República Dominicana。
公式な英語表記は、Dominican Republic。
日本語の表記は、ドミニカ共和国。漢字では土弥尼加共和国と表記される。
植民地時代はサント・ドミンゴと呼ばれており、スペイン人ハイチ共和国など様々な名前の変遷を経て、1844年のハイチからの独立後、1865年のスペインからの最終的な独立時に現在の名称に定まった。
紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。
この島に1492年、クリストバル・コロンがヨーロッパ人として始めて上陸し、「小さなスペイン」(Hispañola)島と新たに名づけた。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟バルトロメ・コロンによってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。
先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しくそのほとんどと言っていいほど死んでしまった。サトウキビのプランテーションがカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷をアフリカから連れてきて足りない労働力を補った。
1526年からベネスエラ全土がサント・ドミンゴのアウディエンシアの管轄下に置かれていたが、1717年、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が設立されるとベネスエラの行政権はまず副王領に、そして1777年以降はベネスエラ総督領に移管され、1786年にカラカスにアウディエンシアが設立されたことにより、司法権も完全に独立した。
その一方でイスパニョーラ島の統治は数世紀に渡って疎かにされ、その後イギリスのオリヴァー・クロムウェルの派遣した遠征軍による侵略の失敗などもある中、島西部が無人状態になったところに目を付けられてフランス人海賊が定住し、最終的に1697年のライスワイク平和条約により、イスパニョーラ島の西側は現ハイチのフランス領サン=ドマング、東側の3分の2がスペイン領サント・ドミンゴ、現在のドミニカ共和国となった。
その後一世紀近くスペイン領内では停滞が続いていたが、サン=ドマングで起きていたハイチ革命の波及や、フランス革命戦争最中の1795年にバーゼルの和約が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールの攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の指導者は1804年にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。
しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の1814年、パリ条約で再び東側は正式にスペイン領となるが、折からシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガスらによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴのクリオージョにも独立の気運が高まり、1821年11月30日にスペイン人ハイチ共和国として独立した。この政権はシモン・ボリーバルの指導するコロンビア共和国への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて1822年1月には再び隣国ハイチのジャン・ピエール・ボワイエに占領された。
しかし、ボワイエの独裁とハイチの植民地支配に反発する勢力は次第に大きくなっていき、ボワイエが失脚した後の1844年2月27日、フアン・パブロ・ドゥアルテ、ラモン・メーリャ、フランシスコ・デル・ロサリオ・サンチェスに率いられた革命軍がハイチ人を一掃し、翌1845年ハイチより独立してドミニカ共和国となり、ペドロ・サンタナ将軍が初代大統領に就任した。 しかし、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と結んだドミニカ人自由派がスペイン人に対する独立戦争を激化させ、結局1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡ってアメリカ合衆国への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(ここら辺の事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期のキューバとも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。
1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。
黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領になったウーローは、しかし大統領としては拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。
1916年から1924年まではアメリカ海兵隊に軍事占領される。
1906年ドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。
1930年から1961年に暗殺されるまでラファエル・トルヒーヨ将軍が大統領になり独裁政権が続いた。
同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いたトルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。
ドミニカ共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で17,000人から35,000人が殺された。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年にはキューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。
しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。
1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはドミニカ革命党のフアン・ボッシュ・ガビノが大統領に就任した。 ケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン大佐によるクーデターによって追放されてしまった。 こうして軍事評議会に推薦された実業家のレイド・カブラルが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。
しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カーマニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。 立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてドミニカ内戦が起こり、 さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した。4月30日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、ブラジル軍を中心する米州平和軍(その他にはホンジュラス軍、アルフレド・ストロエスネル政権のパラグアイ軍、ソモサ王朝のニカラグア国家警備隊、軍隊を持たないコスタ・リカからは警察隊など)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦)。こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結した。
翌1966年の形式的な選挙により、キリスト教社会改革党から「トルヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だった、ホアキン・バラゲールが大統領になると、バラゲールは死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒーヨ時代に逆行してしまった。
1978年から1982年まではドミニカ革命党のアントニオ・グスマンが大統領。1982年から1986年までは サルバドール・ホルヘ・ブランコが大統領だった。
1992年にはコロンブスのアメリカ大陸到達500年記念祝賀への反対運動が起きた。この国ではコロンブスは嫌われているのである。 1994年の大統領選挙も「不正」をめぐって紛糾した。社会情勢は不安定である。
ドミニカ共和国の政体は、行政、立法、司法が独立した一般的な民主主義体系をとっている。大統領は組閣を行い、立法府により制定された法を執行する。また、国防軍の最高指揮官でもある。大統領及び副大統領の任期は4年であり、直接選挙によって選出される。選出の際は、立候補した大統領候補と副大統領候補の組に対して投票を行う。
立法府は、二院制の議会によって構成されている。上院の定員は32名、下院は150名である。大統領選挙は4で割り切れる年に行われ、議会の選挙はそれ以外の年に行われている。
詳細はドミニカ共和国の行政区画を参照
ドミニカ共和国は31の州(provincia)に分けられる。加えて、首都サント・ドミンゴは首都地区(Distrito Nacional)として独立している。州は郡、市町村などの地方行政区にさらに分けられる。
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D.N.* |
詳細はイスパニョーラ島を参照せよ
ドミニカ共和国はハイチと共に大アンティル諸島で二番目に大きいイスパニョーラ島に位置し、およそ島の2/3の面積を占め、カリブ海ではキューバの次に大きい。ドミニカには三つの山脈と、その間に位置する四つの平野があり、それぞれがハイチから続く中央山脈、セプテントリオナル山脈、オリエンタル山脈となっており、中央山脈とセプテントリオナル山脈の間の裾野には同国で最も肥沃なシバオ平野が広がる。
最高峰はドゥアルテ峰 (3175m)であり、これはカリブ海諸国での最高峰でもある。また、同国最大の湖エンリキージョ湖はカリブ海でも最大での最大の湖でもある。かつてコロンがこの地に上陸した時は、世界で最も美しい風景だと称えた。
国内最高峰のドゥアルテ峰から85km程南西には標高マイナス40mの塩湖エンリキーリョ湖が存在し、これはカリブ海でも最も低いものである。ただし、これ以外は余り大きな湖には恵まれていない。ドミニカ共和国の55ある湖の内、アラワク族の名づけたものは45個に達する。
熱帯のサバナ気候 (Aw) に属すが、気候は海洋性を帯びているため過ごしやすい。雨季は夏季(5月から11月)であり、6月から11月はハリケーンが飛来する。12月から3月は北大西洋寒気団の影響を受ける。北部と東部で最も多く雨が降り、西部で最も少なくなる。年間平均降水量は1346mmだが蒸発が激しい。例を挙げると北部のサマナでは2500mm以上、南西部のバラオナでは625mmといった具合である。 年平均気温は32℃を超えることは稀であり、季節風の影響ですごしやすい。しかし、中央山脈のコンスタンサのような都市では、冬季の気温が氷点下に達することもある。
ブラックスミス機関によると、サント・ドミンゴから20kmも離れていないバホス・デ・アイナは世界でも十位に入る程汚染された土地となっており、そのことからの小児への汚染が危惧されている。
ドミニカ共和国大統領は軍の最高指揮権を持つ。ドミニカ共和国軍は44,000人の現役兵から構成されているが、実際に軍務に服しているのは32,000人ほどだと推測され、さらにそのうちの半分は非軍事部門で活躍している。
国家警察はほぼ32,000人であり、警察は軍の機構ではないが、それでも軍と警察の任務に重なる部分は存在する。現在軍の63%が、軍事部門と酷似した部門において、伝統的な警察の任務から出た領域で勤務している。
農業が主要産業であり、農産品の輸出と、観光が外貨の獲得源となっている。最も近年は観光業の隆盛により、サービス産業が農業に取って代わる勢いで成長している。砂糖の絞りかすから製造されるフルフラールは、北米地域で比較的高いシェアを占めている。
2004年の国際通貨基金の調査によると、一人当たりGDPは2,193米ドルとなっている。
観光地としてはカサ・デ・カンポが有名である。
住民の人種構成は、ヨーロッパ系が16%、アフリカ系が11%、ムラートが73%である。 10-20%はタイノ人の血が流れており、これが食文化や、さらにはドミニカ人の穏やかな性格に影響を与えているようである。ドミニカ共和国人は白人に対して柔軟な考え方をしており、多くのドミニカ共和国人はたとえ自分の親族に黒人がいようとも、自らをより白いと規定する傾向があり、多くのドミニカ人は自らを黒人よりも混血と捉えている。つまり多くのドミニカ人は自らを、アフリカ系ほどではないが黒い肌であると捉えている。
1794年に103,000人(うち白人35,000人、解放奴隷とムラート38,000人、黒人奴隷30,000人)ほどだった人口は(ちなみに同時期のハイチは人口50万人を越えていた)、 1930年には100万人を越し、第二次世界大戦後、急速な人口増により1960年のセンサスでは3,407,070人、1975年には4,697,000人となり、現在は人口でハイチを越えた。
言語はスペイン語が公用語であるが、移民によってハイチ・クレオール語やフランス語、ドイツ語、英語、イタリア語なども話されている。特にハイチ・クレオール語はハイチ人移民やその子孫によって、約120万人程が話していると推測されている。ドミニカ共和国のスペイン語は、語彙の面でアラワク族の言葉の影響を大きく受けている。
宗教は、ローマ・カトリックが64%である。[1]
ユダヤ人はヨーロッパでのナチスによる迫害から逃れたものが、1930年代後半になってからようやくドミニカ社会に現れるようになった。
1820年代のハイチ占領時のドミニカ共和国東部には、ハイチ政府の招きに応じてやってきたアメリカ合衆国の黒人奴隷が定住した。
1800年代後半から1900年代初頭にかけてはベネスエラ人、プエルト・リコ人の大規模な移民もあった。20世紀の初頭にはレバノン人が移住し、中国人やインド人の移民もあった。トルヒージョ大統領はドミニカを白人国家にしようとヨーロッパ系の移民を誘致したが、これは限定的な成果しか挙げなかった。1930年代後半から第二次世界大戦後はユダヤ人の移民が多かった。
主な移民としてはハイチ人、ドイツ人、イタリア人、フランス人、ユダヤ人、スペイン人、中国人、アメリカ合衆国人など。ごく少数だが日本人やアラブ人(特にレバノン人)の移民もあった。 近年はドミニカ人のアメリカ合衆国やプエルト・リコへの出稼ぎ移住が多い。
ラテンアメリカ諸国の中では治安は比較的良い方だとされているが、それでも旅行者を標的にした犯罪は後を絶たない。また、ドミニカ共和国はコロンビアからのコカインの輸出中継地である。
ドミニカ共和国の文化はアラワク族の文化、西アフリカから移入された黒人の文化、スペイン人の文化の影響を受けている。 近年は政情が安定しない隣国ハイチから逃れてくる人も多く、そうしたハイチ人の文化がドミニカ共和国の文化に更なる多様性をもたらしている。
オフォング
1840年代にメレンゲが生まれた。生まれた当初は田舎の野蛮な音楽という位置づけだったが、地道に伝承、発展が続けられ、1930年代以降にはメレンゲをこよなく愛した独裁者トルヒーヨによって国民文化として保護され、現在の地位に至っている。
1920年代の占領統治時代にアメリカ軍の兵士向けにメレンゲが発達し、パムビーチェが生まれ、1950年代にはバチャータが生まれた。
現在ではニューヨーク生まれのサルサも人気であり、在米ドミニカ人の活躍により、ドミニカ音楽の合衆国市場への進出も盛んである。
ドミニカ共和国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある。詳細は、ドミニカ共和国の世界遺産を参照。
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サント・ドミンゴの植民都市 - (1990年、文化遺産) |
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
| 1月6日 | 公現祭 | Epifanía, Santos Reyes Magos | |
| 1月21日 | アルタグラシアの聖母 | Virgen de la Altagracia | |
| 1月26日 | フアン・パブロ・ドゥアルテの日 | Día de Juan Pablo Duarte | |
| 3月か4月 | 聖金曜日 | Viernes Santo | |
| 5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
| 5月17日 | 国際コンタドールの日 | Día del Contador de las Américas | |
| 8月16日 | 民族維新の日 | Restauración Nacional | |
| 9月24日 | メルセデスの聖母 | Vírgen de las Mercedes | |
| 11月6日 | 憲法記念日 | Día de la Constitución | |
| 12月25日 | クリスマス | Navidad |
キューバやベネスエラと同じくアメリカ合衆国の影響を受けて野球が大変盛んであり、サミー・ソーサなどメジャー・リーグにも多くの選手を出している。
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|---|---|
| アングロアメリカ | アメリカ合衆国 | カナダ |
| 中央アメリカ | エルサルバドル | グアテマラ | コスタリカ | ニカラグア | パナマ | ベリーズ | ホンジュラス | メキシコ |
| 西インド諸島 | アンティグア・バーブーダ | キューバ | グレナダ | ジャマイカ | セントクリストファー・ネイビス | セントビンセント・グレナディーン | セントルシア | ドミニカ共和国 | ドミニカ国 | トリニダード・トバゴ | ハイチ | バハマ | バルバドス |
| 南アメリカ | アルゼンチン | ウルグアイ | エクアドル | ガイアナ | コロンビア | スリナム | チリ | パラグアイ | ブラジル | ベネズエラ | ペルー | ボリビア |
| 地域 | アメリカ合衆国:米領ヴァージン諸島 - プエルトリコ | イギリス:アンギラ - 英領ヴァージン諸島 - ケイマン諸島 - タークス・カイコス諸島 - バミューダ諸島 - フォークランド諸島 - モントセラト | オランダ:アルバ - 蘭領アンティル | デンマーク:グリーンランド | フランス:グアドループ - サン・バルテルミー島 - サン・マルタン島 - サンピエール島・ミクロン島 - 仏領ギアナ - マルティニーク |
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