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スーダン共和国についての情報


スーダン共和国
スーダンの国旗 スーダンの国章
(国旗) (国章)
国の標語 : Al-Nasr Lana
(アラビア語: 勝利は我々のもの) 国歌 : Nahnu Jund Allah Jund Al-watan スーダンの位置
公用語 アラビア語、英語
首都 ハルツーム
最大の都市 オムドゥルマン
元首
大統領 オマル・アル=バシール
首相 なし
面積
総計 2,505,810km(10位)
水面積率 5.2%
人口
総計(2005年) 36,233,162人(30位)
人口密度 15人/km
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年) 6兆7976億スーダン・ディナール(2007年変更→スーダン・ポンド
GDP(MER)
合計(2005年) 279億ドル(???位)
GDP(PPP)
合計(2007年) 1,078億ドル(62位)
1人当り 2,522ドル
独立
 - 日付
エジプトとイギリスより
1956年1月1日
通貨 スーダン・ポンド(SDG)
時間帯 UTC +2(DST: なし)
ccTLD SD
国際電話番号 249

スーダン共和国(スーダンきょうわこく)、通称スーダンは、北アフリカに位置するアフリカ大陸最大の面積をもつ国。首都はハルツーム。

エジプト、リビア、チャド、中央アフリカ、コンゴ民主共和国、ウガンダ、ケニア、エチオピア、エリトリアと国境を接し、東は紅海に面する。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 第一次内戦とイスラム化
    • 2.2 第二次内戦
    • 2.3 ダルフール紛争
    • 2.4 アビエイ問題
  • 3 政治
  • 4 地方行政区分
  • 5 地理
  • 6 経済
  • 7 軍事
    • 7.1 空軍
  • 8 国民
    • 8.1 言語
    • 8.2 民族
    • 8.3 宗教
  • 9 文化
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク
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国名

正式名称はアラビア語で、 (ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya al-Sūdān; ジュムフーリーヤ・アッ=スーダーン)。通称は、(al-Sūdān; アッ=スーダーン)。

公式の英語表記は、Republic of the Sudan。通称、Sudan。

日本語の表記は、スーダン共和国。通称、スーダン。

スーダーンはアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するために歴史的スーダンともいう。スーダンは、歴史的スーダンの東部を占め、歴史的には東スーダーンと呼ばれた地域にあたる。

歴史

1821年エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げたがエジプトそのものがイギリスの保護下に置かれ、イギリスの力を借りて支配を広げていった。

1883年にムハンマド・アフマドを指導者とするマフディー運動(マフディーの乱)がエジプト/イギリス軍のチャールズ・ゴードンを撃退し、マフディー国家が建設された。

1898年イギリスのホレイショ・キッチナー率いる英埃軍がオムドゥルマンの戦いなどでマフディー国家を制圧し、1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれた。1924年以降は南北で分断して統治する手法を採った。

1924年以降北部を中心に独立運動が続けられ、1954年自治政府が発足し、1956年1月1日に独立した。

第一次内戦とイスラム化

独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心であったため、1955年に南北内戦が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の非アラブ系(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。1924年以降イギリスが南北を分断統治し、マラリアなどの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことも分裂の元となった。第一次内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。

1969年5月、陸軍のクーデターでモハメド・アン=ヌメイリを議長とする革命評議会が全権を掌握、国名をスーダン共和国からスーダン民主共和国に改め、1971年にヌメイリが大統領に就任した。ヌメイリ政権は1983年9月にイスラム法を導入したため、これに反発する南部スーダンの黒人有力民族ディンカ人を主体とするスーダン人民解放軍 (SPLA) がゲリラ闘争を拡大、再び内戦に突入した。

1984年からは旱魃(かんばつ)とエチオピアからの難民流入で経済困難に陥り、1985年5月にヌメイリ大統領はクーデターで失脚し、エジプトに亡命した。12月に国名はスーダン共和国に戻され、翌1986年4月、議会選で、ムハンマド・アフマドの曾孫にあたるサーディク・マフディーを首相とする文民政権が成立した。

第二次内戦

第二次スーダン内戦は、1983年に勃発した。

1989年6月30日、オマル・アル=バシール准将がイスラム主義組織民族イスラム戦線 (NIF) と連携して無血クーデターを成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。最高機関だった革命委員会は1993年10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は内閣に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。1996年3月の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。

1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7%が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会のトラービー議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、2000年1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の与党「国民会議」(NC, NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。

トラービーは新党「人民国民会議」(PNC) を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では野党はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。2001年2月、PNCとSPLAがスイスのジュネーブで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。

バシール大統領は2002年8月19日、小規模な内閣改造を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党 (UP) の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに11月30日には中道リベラル政党「民主統一党」(DUP) の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年1月9日には、バシールとSPLAとの間で包括和平、半年後の暫定政府発足について合意に達した。

2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。

7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死(ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる)し、これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ族中心であった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。

ダルフール紛争

西部のダルフール地方3州でも2003年以降アラブ系と非アラブ系の紛争が激化し、2004年アフリカ連合が監視要員の派遣を決定した。詳細はダルフール紛争を参照。

アビエイ問題

南北和平協定における協定事項の一つであったアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。

政治

地方行政区分

詳細はスーダンの地方行政区画を参照

スーダンの地図
スーダンの地図

25の州とその下に133の地区がある。()内は主要都市。

主要都市は、首都のハルツームの他、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリ、ポートスーダン、ジュバがある。

地理

国土の大部分は広大な平原で、ほぼ中央をナイル川とその支流が縦貫する。北部はヌビア砂漠、中部は砂丘地帯、南部は沼沢地帯となっている。北部は砂漠性の乾燥気候、南部は多湿な熱帯気候。北部の砂漠と紅海沿岸は一年中、日中の気温が38℃を超す炎熱の地。

経済

詳細はスーダンの経済を参照。

1990年代までは、長引く内戦や経済制裁などで、経済は完全に破綻状態であり、2007年現在スーダンは平和基金会が発表している「世界失敗国家ランキング」1位の国である。

一方、石油資源やレアメタルの埋蔵量が大きく世界の注目を浴びており、1990年代後半から石油メジャーの間隙を突く形で、中国政府のバックアップを受けた中国系企業が多数進出。数万人規模の労働者がスーダンに派遣され、石油プラント、パイプラインが建設されたほか、メロウェダムに象徴される大規模な水力発電所及びダム、老朽化した鉄道(ポートスーダンからハルツーム間)の建設も受注するなど、極めて濃厚な協力の下、徐々に経済が立ち直る兆しが見られる。

軍事

イギリスとソビエト連邦、中国の軍事顧問団が政変の度に入れ替わりつつ指導し、育成が続けられてきた。スーダン内戦を通じての対ゲリラ戦の実績はあるが、他国との本格的な交戦実績はない。2000年代に入り、石油輸出で得られた外貨を武器購入に充て、紛争を行っていることから国際的な非難を浴びている。

空軍

保有機数や運用実態の詳細は不明であるが、スーダン空軍では固定翼機はMiG-21(主として中国生産型のJ-7)及びMiG-29を、回転翼機はMi-24/35やMi-8/17などを保有している。

MiG-29については、ダルフール紛争に関する国際的な批判にも拘らず、2003年から2004年にかけてロシアより最新派生型のひとつMiG-29ESh戦闘機10機とMiG-29UB練習機2機が輸出され、国際的な注目を集めた。ロシアは、MiG-29のこの派生型は対地攻撃には使用できない仕様であり紛争には関係しないと説明していたが、一方で対地攻撃ヘリコプターMi-35の新型を引渡している。

空軍機材の主となっているのはこのような旧ソ連製や中国製の機材であるが、その他に補助的ながら西側製の機材も運用している。

国民

言語

アラビア語と英語が公用語。ヌビア語など非アラブ民族語も。

2005年の現行憲法は公用語について以下のように定めている。

第八条

民族

北部のヌビア人、中部のヌバ山地や南部のナイル系民族など黒人が52%、北部を中心にアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「アラブ系」が総人口の約39%、東部のクシ系のベジャが6%、外国人が2%、その他1%。

宗教

スンナ派を中心とするイスラム教が70%。南部非アラブ人を中心にアニミズムなどの伝統宗教 (18%) とキリスト教 (5%)。北部に20万人程コプト教徒がいる。

文化

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祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考

関連項目

外部リンク

ウィキニュース ウィキニュースに、スーダンに関連するニュースがあります。
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