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ウルグアイ東方共和国についての情報


ウルグアイ東方共和国 República Oriental del Uruguay
ウルグアイの国旗 ウルグアイの国章
(国旗) (国章)
国の標語 : Libertad o Muerte
(スペイン語:自由か死か) 国歌 : ウルグアイの国歌(東方人よ、祖国か墓か) ウルグアイの位置
公用語 スペイン語
首都 モンテビデオ
最大の都市 モンテビデオ
元首
大統領 タバレ・バスケス
首相 なし
面積
総計 176,220km(88位)
水面積率 1.5%
人口
総計(2005年) 3,415,920人(128位)
人口密度 19人/km
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年) 4,241億ウルグアイ・ペソ ($)
GDP(MER)
合計(2005年) 131億ドル(92位)
GDP(PPP)
合計(2005年) 328億8500万ドル(73位)
1人当り 9,619ドル
独立
 - 宣言
 - 認可
ブラジルより
1825年8月25日
1828年8月27日
通貨 ウルグアイ・ペソ ($)(UYU)
時間帯 UTC -3(DST: -2)
ccTLD UY
国際電話番号 598

ウルグアイ東方共和国 (República Oriental del Uruguay) 、通称ウルグアイは、南アメリカの共和制国家。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。首都はモンテビデオ。

ウルグアイはチリに続いてラテン・アメリカで二番目に生活水準が安定している国であり、政治、労働の状態においては大陸で最高度の自由を保つ。

目次

  • 1 国名
  • 2 歴史
    • 2.1 前コロンビア期
    • 2.2 植民地化
    • 2.3 独立戦争の志士達とホセ・アルティーガスの解放戦争
    • 2.4 ブラジル戦争とウルグアイの独立
    • 2.5 ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスの福祉国家
    • 2.6 福祉国家の行き詰まりとトゥパマロスの台頭
    • 2.7 軍政と民政移管以降
  • 3 政治
  • 4 地方行政区画
  • 5 地理
    • 5.1 都市
    • 5.2 河川・湖
    • 5.3 山
    • 5.4 国境
    • 5.5 気候
    • 5.6 飛び地と飛び領土
  • 6 軍事
  • 7 経済
    • 7.1 農牧業
    • 7.2 鉱業
    • 7.3 林業
  • 8 国民
    • 8.1 人口
    • 8.2 移民
    • 8.3 言語
    • 8.4 宗教
    • 8.5 教育
  • 9 文化
    • 9.1 食文化
    • 9.2 音楽
    • 9.3 文学
    • 9.4 絵画
    • 9.5 映画
    • 9.6 世界遺産
    • 9.7 祝祭日
  • 10 スポーツ
    • 10.1 サッカー
    • 10.2 その他のスポーツ
  • 11 社会問題
  • 12 脚注
  • 13 文献目録
    • 13.1 インターネット
    • 13.2 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク
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国名

ウルグアイ川
ウルグアイ川

もともとこの地域はウルグアイ川東岸地方(バンダ・オリエンタル)と呼ばれ、住民は自らを東方人(オリエンターレス)と称していた。

正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay(ウルグアイ)。

公式の英語表記は、Oriental Republic of Uruguay (オリエンタル・リパブリック・オブ・ウルグアイ)。通称、Uruguay。

日本語の表記は、ウルグアイ東方共和国である。通常、ウルグアイと表記され、ウルグァイと表記されることもある。漢字表記は宇柳具となる。

国名は同国西部を流れるウルグアイ川に由来し、グアラニー語でuru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)が語源であると言われている。

歴史

詳細はウルグアイの歴史を参照。

前コロンビア期

現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威にはこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア族とグアラニー族をはじめとするインディヘナ諸部族が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。

植民地化

1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」という言葉が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。

平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争で先住民グアラニー族がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。

独立戦争の志士達とホセ・アルティーガスの解放戦争

街角に佇むホセ・ヘルバシオ・アルティーガスフアン・マヌエル・ブラネス画
街角に佇むホセ・ヘルバシオ・アルティーガス
フアン・マヌエル・ブラネス画

フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・ヘルバシオ・アルティーガスはこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、半島戦争が勃発すると、ナポレオンは兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えたが、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。

1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・ヘルバシオ・アルティーガスによりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。

ブラジル戦争とウルグアイの独立

フアン・アントニオ・ラバジェハ
フアン・アントニオ・ラバジェハ
33人の東方人の誓い
33人の東方人の誓い

ブラジル帝国とラ・プラタ連合州との係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派、統一派などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。 しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴがその後の戦争指導にあたるが、指導力の低下は隠し難く、有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、これによりバンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たしたが、長年に渡る戦争の惨禍により、この地にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラの甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア族を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは消え去る。

独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、 大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベがモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサの寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。

しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、干渉国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。

ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスの福祉国家

ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス
ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス

20世紀に入り、最後となった内戦に勝利した、コロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によって、スイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェが死ぬ頃にはウルグアイは南米で最も安定した国家となっていたが、しかし、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。

福祉国家の行き詰まりとトゥパマロスの台頭

バッジェは福祉国家を築いたが、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、封建的大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。第二次世界大戦、朝鮮戦争の頃まではそれでも体制は安定していたが、1950年代の後半から主要産業・畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈する。このような情勢の中で、一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入され、また、軍部の政治介入が進むことになった。

軍政と民政移管以降

1971年の大統領選挙で拡大戦線が敗北するとトゥパマロスの攻撃は激化したが、1973年のクーデターにより軍部が政治の実権を握ると、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧するが、代わりに功績があった軍部が政治介入を進め、ブラジル型の官僚主義的権威主義的体制がウルグアイにも導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス将軍が大統領に就任し、新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。その後1985年に民政移管してコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールにも加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。

政治

ロドー公園から見たメルコスール本部
ロドー公園から見たメルコスール本部

国際連合、米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスールの加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールはモンテビデオに事務局がある。

立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。

議会は二院制で、上院の定員は31名、下院は99名であり、任期は5年となっている。

チリと並んでラテン・アメリカでも伝統ある民主主義国家であり、バッジェが現れてからはラテン・アメリカの混乱の中で安定した民主主義と高度な福祉を維持したことにより、一時期は南米のスイスとも呼ばれた。第二次世界大戦後はスイスの制度を参考にバッジェの構想した複数行政制度が1952年憲法で完成し、大統領制は廃止され、9人からなる執政官による執政評議会制度が完成した。世界でも珍しい政治体制により、ウルグアイ人は自らの国を「民主主義の実験室」と呼んだが、1960年代に都市ゲリラトゥパマロスの攻撃が進むと、ゲリラ戦に迅速に対処するために1967年憲法で再び大統領制が導入された。

1973年にトゥパマロスが戒厳令を敷いた軍部によって鎮圧されると、鎮圧の功績によって1973年以降は事実上の軍政が敷かれたが、軍は1976年の軍事クーデターで政治の直接介入を望んだ。このクーデターによりウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生すると、諸外国にはチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は強く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票は否決され、1985年に軍政は民政移管されることになった。

2004年10月31日(現地時間)に実施された大統領選挙で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した『進歩会議・拡大戦線・新多数派』(通称:拡大戦線)のタバレ・バスケス(Tabaré Vázquez)候補が、与党である国民党 (ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ(Jorge Larrañaga)候補を抑え当選した。それにより1852年以来の、コロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符を打った。

詳細は2004年ウルグアイ大統領選挙を参照のこと。(スペイン語)

地方行政区画

詳細はウルグアイの地方行政区画を参照。

ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。

ウルグアイの行政地図
ウルグアイの行政地図
面積(km) 人口* 県都
アルティーガス県 11,928 78,019 アルティーガス
カネロネス県 4,536 485,028 カネロネス
セロ・ラルゴ県 13,648 86,564 メロ
コロニア県 6,106 119,266 コロニア・デル・サクラメント
ドゥランソ県 11,643 58,859 ドゥランソ
フローレス県 5,144 25,104 トリニダード
フロリダ県 10,417 68,181 フロリダ
ラバジェハ県 10,016 60,925 ミナス
マルドナド県 4,793 140,192 マルドナド
モンテビデオ県 530 1,326,064 モンテビデオ
パイサンドゥー県 13,922 113,244 パイサンドゥー
リオ・ネグロ県 9,282 53,989 フライ・ベントス
リベラ県 9,370 104,921 リベラ
ロチャ県 10,551 69,937 ロチャ
サルト県 14,163 123,120 サルト
サン・ホセ県 4,992 103,104 サン・ホセ・デ・マジョ
ソリアノ県 9,008 84,563 メルセデス
タクアレンボー県 15,438 90,489 タクアレンボー
トレインタ・イ・トレス県 9,676 49,318 トレインタ・イ・トレス
* 2004年


地理

詳細はウルグアイの地理を参照。

ウルグアイの地図
ウルグアイの地図
衛星から見たウルグアイ
衛星から見たウルグアイ
毛皮は高級品である
毛皮は高級品である
サルト・グランデのダム
サルト・グランデのダム

ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近でははそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。

また、国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカルピンチョやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。

都市

国内第二の都市サルトでも人口は十万人であり、極端なモンテビデオ一極集中である。

河川・湖

ウルグアイには高山はなく、国内で最も標高の高いミラドール・ナシオナル山でも514メートルしかない。

国境

ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯冶客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ市 (ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメント市との双子の都市)の人々にはポルトゥニョール (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。

気候

ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属し、夏は暖かく冬は寒い。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。

6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。

平均気温:春:17℃、夏:23℃、秋:18℃、冬:12℃

飛び地と飛び領土

1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。

軍事

詳細はウルグアイの軍事を参照。

徴兵制が敷かれており、成人男子は兵役の義務を有している。ウルグアイ軍は陸海空軍を併せて約23500人の兵員から構成され、2007年現在でおよそ2500人程の兵員が国際連合(国連)の平和維持活動に従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、1973年に都市ゲリラトゥパマロスを鎮圧すると軍部の政治介入が進んだ。近年は以前に比べると軍の政治力は落ちているようである。

経済

詳細はウルグアイの経済を参照。

ウルグアイの首都モンテビデオ
ウルグアイの首都モンテビデオ

メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはMERCOSURの事務局がある。

ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった重工業化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わる頃から代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品モノカルチャー経済だったウルグアイはバッジェの福祉国家体制の支出を維持できずに破綻した。

農牧業

歴史的にエスタンシアの中心地だったサン・エウヘニオのエスタンシア。エスタンシアはウルグアイの原風景である。フロリダ県南部
歴史的にエスタンシアの中心地だったサン・エウヘニオのエスタンシア。エスタンシアはウルグアイの原風景である。フロリダ県南部

農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。

ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品はより有機的である。

東部のブラジルとの国境付近の県では米が栽培されている。北部は亜熱帯に近くなり、アルティーガス県では砂糖黍栽培が盛ん。

近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。

鉱業

瑠璃、アメジスト、石灰岩等を産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。

林業

近年ユーカリによる林業の成長が期待され、そのためのサムライ債が発行された。

国民

1961年から2003年までのウルグアイの人口グラフ(FAO)
1961年から2003年までのウルグアイの人口グラフ(FAO)

多くのウルグアイ人はたとえイタリアやイギリスの血統が入っていようが、背景としてスペインの文化を共有する。総人口の88%がヨーロッパ系の住民で、主要少数民族としてはメスティーソが8%、ムラートとアフリカ系ウルグアイ人が4%を占める。数百人の日系人も存在する。

ウルグアイはスペイン語を話すラテン・アメリカの国である。19世紀まではスペイン植民地の中でもコスタ・リカと並んで特に辺境の地であったが、1700年代の後半に都市の発展により黒人奴隷がポルトガル奴隷商人によってアンゴラやコンゴ付近や赤道ギニアから輸入された。バンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地の住人は自らを東方人と呼び、独自のアイデンティティを持っていた。

先住民のグアラニー族は18世紀にパラグアイに撤退したが、地名に大きな影響を残している。一方独立戦争への参加により、1000人ほどにまで数を減らしていたチャルーア族は、1831年の初代大統領リベラの掃討作戦によりほとんど殺戮された。この虐殺はウルグアイ人の心に大きなトラウマとなって残り、そのことを悔いてなのかウルグアイの新聞のアンケート調査によれば、今でも約半分程のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の虐殺の日が近くなるとモンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされるという。2002年に最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりにウルグアイに帰ってきた。

人口

ウルグアイの人口は、1828年の独立時には長年の戦争により僅か74,000人程であり、パンパの開発のために他のラテン・アメリカの国と同じようにヨーロッパから大規模に移民を呼ぶようになった。こうしてスペイン人、特にガリシア出身者を中心として移民がやってきた。他に多かった移民はイタリア人であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、フランス人と共にモンテビデオにそのまま住んだ。また、独立直後の時期にイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込み、近代的地主となった。このようにして19世紀半ばにやってきたヨーロッパ移民には、無政府主義者が多く、ウルグアイ人に無信仰の人間が多いのと、ウルグアイでのカトリック教会の影響力がラテン・アメリカの国の中では特に弱いのはそのためである。その他にはブラジルやアルゼンチンからやってきた人々も大きな影響を与えた。

その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。

ウルグアイの出生率はアルゼンチンより低く、ラテン・アメリカでも最も低い部類に入る。

移民

19世紀から20世紀にかけてウルグアイに流入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いスペイン人、イタリア人に次いでフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イギリス人、スイス人、ロシア人、ポーランド人、ブルガリア人、ハンガリー人、ウクライナ人、リトアニア人、エストニア人、ラトヴィア人、オランダ人、ベルギー人、クロアチア人、ギリシア人、スカンディナヴィア人、アイルランド人、そしてアルメニア人となる。

しかし、移民受け入れ国だったウルグアイも、1970年代の抑圧的な軍政の時代には実に国民の17%にもなる50万人のウルグアイ人が国を捨てて出て行った。ただし、こうして去っていった人々の中には軍政が終わると祖国に帰ってきた者もいた。

言語

スペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはポルトゥニョール・リベレンセ語(Portuñol Riverense)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラブ人のコミュニティが存在する。

宗教

ウルグアイでは1916年に国家とカトリック教会が正式に分離した。多くは、カトリック (62%) を信仰し、少数ながら、プロテスタント (4%)、ユダヤ教 (3%) の信者がいる、そして残りの31%が無宗教である。

教育

識字率は1996年の調査で96.79%であり、これはラテン・アメリカではアルゼンチン、キューバに並んで高い。

文化

ウルグアイのムルガのグループ
ウルグアイのムルガのグループ
América invertida(ひっくり返ったアメリカ) (1943年)  ホアキン・トーレス・ガルシア画
América invertida(ひっくり返ったアメリカ) (1943年) ホアキン・トーレス・ガルシア画
フアナ・デ・イバルブール
フアナ・デ・イバルブール
アサード
アサード
ドゥルセ・デ・レチェ(左側奥)
ドゥルセ・デ・レチェ(左側奥)

食文化

詳細はウルグアイ料理を参照。

隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイではアサードやチュラスコ、チョリソなど肉を多く食べる。また、イタリア移民が多いためスパゲッティ等のパスタ類が人気である。その他の料理にはエンパナーダなどがある。

ラ・プラタ諸国の中でも特にマテ茶を好む国であり、アルゼンチン人とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壷を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶をアマルゴ(砂糖なし)にして飲むことを好む。

音楽

詳細はウルグアイ音楽を参照。

タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサなど。

多くのミュージシャンは市場規模の違いからブエノスアイレスに渡って活動する傾向があるため、古くはフランシスコ・カナロ、ウーゴ・ファットルーソやルベン・ラダ、エドゥアルド・マテオから、ハイメ・ロース、スペイン語で初めてアカデミー賞を取ったマエストロ、ホルヘ・ドレクスレルに至るまで、アルゼンチンの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。 また、ロックが盛んでウルグアイのロックはブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカではウルグアヤン・インベイジョンとも呼ばれる。

文学

詳細はウルグアイ文学を参照。

1819年にアルティーガスの軍人だったバルトロメ・イダルゴがガウチョ文学を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。

また、ウルグアイは19世紀末のモデルニスモの中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドーの出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告したアリエルなど。かつてウルグアイは紛れもなくラテン・アメリカナショナリズムの中心地であった。

20世紀以降はノーベル文学賞に数回ノミネートされた女流作家 フアナ・デ・イバルブール や、セルバンテス賞作家のフアン・カルロス・オネッティ、硬骨の作家兼ジャーナリストのエドゥアルド・ガレアーノ らが有名。

絵画

フアン・マヌエル・ブラネスや、 ホセ・クネオ、ネルソン・ロメロなどがいる。 ホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。

映画

詳細はウルグアイ映画を参照。

映画はあまり盛んではないが、フアン・パブロ・レベージャ監督によるウイスキーなどが有名。

世界遺産

2007年現在でウルグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産がひとつある。「コロニア・デル・サクラメントの歴史的街並み」がそれである。

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Año nuevo
1月6日 公現祭 Día de los niños
可変 カルナバル Carnaval
可変 聖週間 Semana de turismo
4月19日 33人の東方人上陸の日 Desembarco de los 33 Orientales
5月1日 メーデー Día de los trabajadores
5月18日 ラス・ピエドラスの戦いの日 Batalla de Las Piedras
6月19日 ホセ・アルティーガス生誕の日 Natalicio de José Artigas
7月18日 憲法宣誓の日 Jura de la Constitución
8月25日 独立宣言の日 Declaratoria de la Independencia
10月12日 民族の日 Día de las Américas
11月2日 死者の日 Día de los difuntos
12月25日 クリスマス Día de la familia

スポーツ

詳細はウルグアイのスポーツを参照。

第一回ワールドカップの開かれたエスタディオ・センテナリオ
第一回ワールドカップの開かれたエスタディオ・センテナリオ

サッカー

ウルグアイ代表(ロス・チャルーアズ)は、かつては同じ南米のブラジル、アルゼンチンと併せて3強と呼ばれ、欧州からも一目置かれていた程、世界の強豪に全く引けを取らなかった。第一回の1930 FIFAワールドカップ大会では初代優勝国となり、ブラジルで開催された第四回の1950 FIFAワールドカップでも、リオ・デ・ジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムでブラジル代表を逆転で破り、見事二度目の優勝を飾った(いわゆるブラジル側から見たマラカナンの悲劇)。

また、FIFAワールドカップが始まったそもそものきっかけも、実はこのウルグアイである。ウルグアイ代表がオリンピックのサッカーで1924年、1928年と連覇を成し遂げ、それからサッカーの人気が広まりFIFAワールドカップが始まったのである。

しかし、現在では古豪と呼ばれて低調が続き、2006年ドイツ大会では南米予選5位でオセアニア1位のオーストラリア代表とのプレーオフに敗れ出場権を逃した。

プロクラブとしては、ペニャロール、ナシオナル・モンテビデオ、デフェンソール・スポルティングなどのサッカークラブがある。

その他のスポーツ

サッカーのほかにはラグビー、バスケットボールなどが盛ん。

インヴァソール(競走馬) - 2006年の米年度代表馬、同年の世界トップレートを持つ。元はウルグアイの調教馬で、2005年に全く次元の違う強さでウルグアイ三冠(無敗)を達成していた。

社会問題

国連の調査によると、ウルグアイのジニ係数は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。

2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。

脚注


文献目録

インターネット

参考文献

関連項目

外部リンク

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