| (国旗) | (国章) |
| 公用語 | カスティーシャ語[2] | ||||||||||||||||||||
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| 首都 | ブエノスアイレス | ||||||||||||||||||||
| 最大の都市 | ブエノスアイレス | ||||||||||||||||||||
元首
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| 独立 - 第一議会 - 独立宣言 |
スペインより 1810年5月25日 1816年7月9日[3] |
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| 通貨 | アルゼンチン・ペソ ($)(ARS) | ||||||||||||||||||||
| 時間帯 | UTC -3(DST: -3) | ||||||||||||||||||||
| ccTLD | AR | ||||||||||||||||||||
| 国際電話番号 | 54 | ||||||||||||||||||||
アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビア、パラグアイ、北東にブラジル、ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を誇る。首都はブエノスアイレス。
チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張しており、また、チリ、イギリスと同様にアルゼンチン領南極として知られる南極の1,000,000 kmの領有権も主張している。
目次
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詳細はアルゼンチンの国名の由来を参照。
正式名称は、República Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。
公式の英語表記は、Argentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)。通称、Argentina(アージェンティーナ)。Argentine(eで終わる)は形容詞としての形であり、名詞としてはArgentina(aで終わる)であることに要注意。
日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、漢字で亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷のように表記される。近年では、原語に従ってアルヘンティーナと表記されることも少なくない。
独立時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)という国名だったが、この元となったラ・プラタ川 (Río de la Plata)は、スペイン語で「銀の川」を意味する。 流域で余り多くの銀を産出しないラ・プラタ川(当初は「真水の海」と呼ばれた)にこの名前が付けられたのは、1516年にスペイン人が最初にこの地に辿り着いた時に、探検者のフアン・ディアス・デ・ソリスが出会ったインディヘナ(チャルーア族)がこの時に銀の飾りを身につけていたことから、上流のパラグアイ方面に「銀の山」(Sierra del Plata)があると誤解したことにより名づけられた。
国名は、ラテン語で「銀」を意味するArgentum(アルジェンツム)に因んだ名称である。このラテン語をスペイン語風に直したArgentinaという名称は、1602年のマルティン・デル・バルコ・センテネラの記したLa Argentinaという本に既に見ることが出来る。国名が正式にアルゼンチンとなったのは1825年のことだった。
国名をスペイン語の「ラ・プラタ」から、ラテン語の「アルゼンチン」に変えたのはスペインからの圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵掠を契機としてフランスでの言い方(ラテン語)を使った。国名とともに銀もla plataからArgentumに変えた。しかし、現行憲法第35条によると、「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」(Provincias Unidas del Río de la Plata)や「アルゼンチン連合」(Confederación Argentina)などの歴史的国名も、「アルゼンチン共和国」(República Argentina)と同様に同国の正式名称であると認識されている。
詳細はアルゼンチンの歴史を参照。
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。
その後15世紀後半にクスコを中心に発展したケチュア族の国家、タワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキの征服によって北西部のアンデス山脈地域はインカ帝国に編入され、征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャスーユの辺境の地となり、30万人ほどのケチュア族やアイマラ族が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャスーユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。
その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア族のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー族のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全体的にこの地域に住む人間の数は少なかった。
1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れるが、すぐに先住民と諍いを起こすと、まもなくチャルーア族に殺害された。
1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた銀の山を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されるが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年程ラ・プラタ地域の中心は1559年にアウディエンシアの設置された、パラグアイのアスンシオンとなった。
その後ペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を主に開拓されていき、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。また、アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年にはブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネスエラなどと並んでイスパノ・アメリカでは最も開発の遅れた地域だった。 また、1580年に放された牛や馬がパンパの牧草を食べて増えていくにつれ、いつしかガウチョが現れるようになっていった。こうした牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。 1613年にコルドバ大学が建設され、以降コルドバが南米南部の学問の中心となる。
その後、18世紀はグアラニー戦争等に代表されるように、ブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するために、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。 しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心はまだ北西部のトゥクマンやコルドバであり、リトラルやブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになる。
1810年5月25日、ポルテーニョは五月革命を起こし、ブエノスアイレスは独立を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の独立に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は1813年のサンロレンソの戦いにも勝利すると各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、マヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略と、アルト・ペルー攻略は失敗した。1816年にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言するが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制国家を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど意見が全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が三度目のアルト・ペルー攻撃に失敗し、北部軍司令官を辞任すると、後を継いだホセ・デ・サン=マルティン将軍がアンデスを越えて王党派の牙城リマを攻略しようと出発し、チリ、ペルーを解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレスの対立が激しさを増し、内戦が続いた。プエイレドンの失脚以降中央政府は存在しなかったが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協によりブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。
その後東方州がポルトガルに併合されたことを見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍の潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争の間はベルナルディーノ・リバダビアを首班にして一時的に中央政府が成立し、またこの時に国名をラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が、国内の全ての層の反発を受けるとリバダビアは失脚し再び中央政府は消滅した。 戦局はアルゼンチン有利に進んだが、こうした内政の混乱が災いして、結局イギリスの介入によりモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にバンダ・オリエンタルはウルグアイ東方共和国として独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。
その後連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した、連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル三州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったものの、アルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入る。1832年に州知事を辞すると、ロサスは「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのインディヘナを、今日のブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出して部下に分け与え、大土地所有制を強化するなどの出来事もあった。
1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れ、妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われて1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。 以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策でブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする、上流階級以外の各層から支持を得て独裁制は成り立っていたのである。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチンを守り抜いた。
しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いで敗れ、失脚した。
カセーロス以後のアルゼンチンは当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは消し去らねばならない存在として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合は極めて自由主義的な憲法を持っていおり、リトラル諸州の要請で貿易を自由化したところで、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業は殆ど壊滅してしまった。 1861年にはブエノスアイレス州がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が成ると、勝利した元ブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレらが主導権を握ってヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉を進め、亜伯二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。こうした勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどがいる。
その後1868年に就任した自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント大統領らによる土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の指揮した砂漠の開拓作戦によってパンパからインディヘナが消えると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制が進んだ。
その後1880年に正式にブエノスアイレスが首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの非公式植民地として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。 こうしてヨーロッパからの大量の移民がブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」になっていった。1914年には国民の約30%が移民であった。 同時にこの頃から、移民の流入や、都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治から民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに、1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進党へと発展して行った。 急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、保守派のロケ・サエンス・ペーニャ大統領は行政による選挙干渉をやめることを提案し、こうして1916年の選挙には急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出された。 民族主義的な政策を以て政治に望んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごし、1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界で第五位の富裕国として名を連ねるようになった。[1]
しかし、1929年の大恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は不安定になった。翌1930年にイリゴージェンは軍事クーデターで追放された。
1930年に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたがこれは失敗した。1932年にアグスティン・ペドロ・フストが大統領となると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ・ランシマン協定で、どうにかイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のようになってしまった。19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「最悪で不名誉な10年間」と形容された。 こうした中で民族主義的な意識が次第に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(GOU)のフアン・ペロン大佐は次第に人気を集め、1946年には遂に大統領に就任する。
大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初は成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらに貧民(デスカミサードス:直訳すれば「シャツ無し」だが、ここでは「上着無し」の意味)から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、そんな中で離婚法を制定したことから遂にカトリック教会との関係も壊れ、支持者の労働者からの失望が広まっていたこともあり、1955年の軍保守派によるクーデターでペロンは亡命した。
1962年、大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが長続きしなかった。これは1966年以降の軍政とは違い、元々治安維持のための短期的な軍政を計画していたからだといわれだと言われている。しかし、1966年のクーデターは様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア政権のもとでブラジル型の官僚主義的権威主義体制がアルゼンチンにも生まれた。軍部は外資を導入して経済を成長させようとしたが、ペロニスタと軍の戦いは激しさを増し、ペロニスタと軍との間でまるで内戦状態のようになった。このような状況の中でペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍との抗争で多くの犠牲者が出た。
しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(コルドバソ)を受けるとその後穏健政策に転じ、ペロニスタと軍の戦いを収める為にはペロニスタを議会に戻すしかないと判断した軍部は自由選挙を行った。この選挙ではペロン党が勝利し、1973年にはペロンが帰国し、三度大統領に就任した。しかし、すぐに病に倒れ、1974年に後を継いだ妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切ることは出来ずに拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。こうして1976年に見かねた軍のホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、ブラジル型の官僚主義的権威主義体制が再びアルゼンチンに生まれた。
この政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策に大失敗して天文学的なインフレを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビーナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと占領したが、当初上手くいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりマルビーナス戦争に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦によりガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。ただし、この戦争によりラテンアメリカ諸国との絆は強まり、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響を与えた。
1983年、大統領選挙と議員選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領となったラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務、マルビーナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、経済面では上手くいかなかったが、長年敵対関係が続いていたチリ、ブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成につながった。軍政時代に人権侵害を行った軍人を裁き、軍の予算や政治力を削減して行った。こうした政策に対して三度に渡る軍の反乱もあったもの、アルフォンシンは結果として軍を統制下に置くことに成功したといえる。任期を5ヶ月残して1989年に辞任した。
1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは1991年の湾岸戦争にラテンアメリカで唯一軍を派遣するなど先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。また、徴兵制も廃止された。一方経済面では当初公約で掲げていたペロニスタの路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策を取った。新自由主義は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で、長年の懸念だったインフレを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年頃にはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。
2001年、急進党のデ・ラ・ルア政権はデフォールトを決行し、国際的な評価は地に落ちた。
2003年、正義党からネストル・キルチネルが大統領に就任した。
2007年10月、正義党から、キルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業、輸出、農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年アルゼンチンは予断をゆるさないものの、再び回復しつつある。
詳細はアルゼンチンの政治を参照。
大統領を元首とする連邦共和制国家であり、首相を長とする内閣、上下二院制の複数政党制議会を備える。大統領、副大統領共に直接選挙で選ばれ、任期は4年。大統領と内閣は行政権を行使し、内閣の大臣は大統領によって任命される。2007年10月には大統領選挙により、イサベル・ペロンに続いて同国二人目の(選挙によるものでは初めての)女性大統領が誕生した。
立法権は国民議会と、元老院が有し、国民議会(下院)は定数257人、元老院(上院)は定数72人である。
司法権は行政、立法から独立している。
政党には現在の与党、正義党(ペロン党)の他、急進市民同盟(急進党)などがある。
相次ぐ国軍の反乱等に見られるように、歴史上、『中進国』とされる国々の中では最も政情の安定していない国の一つであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻等、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。
なお、アルゼンチンは南極条約締結国であり、南極の領有権を主張している。また、アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島の領有権を主張している。
2001年のデフォールト以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビーナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。
戦前はイギリスに周辺国化され、半ば属国のような感がありながらも、経済力を背景にスペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインを凌ぐ勢いで権勢を誇り、北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義の下で中南米を勢力圏に入れようとするのに対し、常に独自外交の元でアメリカ合衆国とは距離を置き、他のラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。
また、ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に仲が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1983年にローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介により、アルゼンチンが系争地の三島のチリ帰属を認め、領土問題で妥協することにより友好関係が確立されたが、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。
アルゼンチンの最大のライバルはやはりブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会がある度にお互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏し、現在ではお互いにメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。
以上のような事情により、現在アルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合の主要国として影響力を保っている。また、対外政策では一線を画しながらも石油、天然ガスを軸にしたベネズエラのチャベス政権との友好関係がキルチネル政権以来続いている。
ヨーロッパとの関係も重要であり、最も仲の良い国家はスペインである。現在スペインには、言語が共通するために多くのラテンアメリカ人が出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチン人もその例外ではなく、多くのアルゼンチン人がスペインに移住している。
日本とは戦前からの長い友好関係が続き、マルビーナス戦争中にも日本がアルゼンチンとの断交を行わなかったなどの友好的政策は、現在でもアルゼンチンの知日家に高く評価されている。
2007年12月クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル新大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。
アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの特別区*から成る。詳細はアルゼンチンの地方行政区画を参照せよ。
他にイギリス領のマルビーナス諸島の領有権を主張している。 なお、国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。
各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は全てあわせると376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentosもpartidosも市町村や地域の中から分割された区分である。
アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。
2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏。
| 順位 | 市 | 州 | 人口 | 地域 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | ブエノスアイレス | 市域 + ブエノスアイレス州 の24の管区 | 11,453,725 | パンパ |
| 2 | コルドバ | コルドバ州 | 1,513,200 | パンパ |
| 3 | ロサリオ | サンタフェ州 | 1,295,100 | パンパ |
| 4 | ラ・プラタ | ブエノスアイレス州 | 857,800 | パンパ |
| 5 | サン・ミゲル・デ・トゥクマン | トゥクマン州 | 833,100 | 北西部 |
| 6 | マル・デル・プラタ | ブエノスアイレス州 | 699,600 | パンパ |
| 7 | サルタ | サルタ州 | 531,400 | 北西部 |
| 8 | サンタフェ | サンタフェ州 | 524,300 | パンパ |
| 9 | サン・フアン | サン・フアン州 | 456,400 | クージョ |
| 10 | レシステンシア | チャコ州 | 399,800 | グラン・チャコ |
| 11 | ネウケン | ネウケン州 | 391,600 | パタゴニア |
| 12 | サンティアゴ・デル・エステロ | サンティアゴ・デル・エステロ州 | 389,200 | グラン・チャコ |
| 13 | コリエンテス | コリエンテス州 | 332,400 | メソポタミア |
| 14 | バイア・ブランカ | ブエノスアイレス州 | 310,200 | パンパ |
詳細はアルゼンチンの地理を参照。
アルゼンチンの国土は、南北に3500km以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で二番目に大きい国で、面積は全体で2,766,890kmになり、陸地のみでは2,736,690kmに、水域のみでは30,200 kmに及ぶ。 北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西に、アンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約20%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。
湿潤パンパは年間降水量が750mm以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・とうもろこしなどを栽培し、牧牛をしている。半乾燥パンパは年間降水量が550mm以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550mm〜750mmが丁度良い)の栽培をしている。
アルゼンチンで最も標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山であり、これは米州と西半球全体で最も高い山でもある。反対に最も標高が低いのはサンタ・クルス州のカーボン湖であり、海抜マイナス105mは南アメリカ大陸全体でも最も低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。
また、アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国、南部の一部はモンゴル国やロシアの対蹠地でもある。
なお、アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。また、イギリスが実効支配しているマルビーナス諸島の領有権も主張している。
アルゼンチンは伝統的に幾つかの地理的な区分に分けられる。
パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は湿潤パンパと呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼ全てと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。なお、ラ・パンパ州の西部は乾燥パンパになっている。コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中では最も重要な、特徴ある地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつてはコロラド川だったが、現在はネグロ川となっている。
グラン・チャコ地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、主に綿花の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては亜熱帯雨林や低木林地や湿地帯が点在し、多くの動植物が棲息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中で最も乾燥した地域である。
パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域はメソポタミア地方と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー族が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部にイベラ湿地が存在する。ミシオネス州はより熱帯で、地理的にはブラジル高原に属し、イグアスの滝と亜熱帯雨林が特徴である。
ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがるパタゴニアのステップは先住民の地域である。多くの地域は雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、幾つかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒くて湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。
アルゼンチン中西部はそびえるアンデス山脈に支配されている。同地域の東部は乾燥したクージョ地域として知られており、そもそもクージョ(Cuyo)という名前もマプーチェ語で「砂地」という意味の言葉から来ているとされている。高山から溶けてきた水は低地のオアシスの灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実とワインの生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。
この地域はアルゼンチンでも最も海抜の高い地域であり、6000mを越える幾つかの平行な山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でも最も重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がるカルチャキ渓谷である。フフイ州よりさらに北に向かいボリビア方面に近づくと、中央アンデスのアルティプラーノ高原が広がる。南回帰線はこの地域からさらに北に向かった遠いところに延びている。
国土西部を南北にアンデス山脈が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰のアコンカグアをはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。また、コルドバ州の西部にもコルドバ山脈が存在するが、標高は余り高くない。
アルゼンチンの主要な河川は ピルコマジョ川、パラグアイ川、ベルメホ川、 コロラド川、ネグロ川、サラド川、ウルグアイ川などであり、最も長い川はパラナ川である。最後に挙げた二つの川は大西洋に流れ出る前に合流し、ラ・プラタ川の河口を形成する。 各地域ごとに重要な河川としてはアトゥエル川、メンドーサ州と同じ名前のメンドーサ川、パタゴニアのチュブ川、フフイ州のリオ・グランデ川、サルタ州のサン・フランシスコ川などがある。
また、アルゼンチンには幾つかの大きな湖が存在し、多くはパタゴニアにある。 アルヘンティーノ湖とビエドマ湖がサンタ・クルス州に、ナウエル・ウアピ湖がリオ・ネグロ州に、ファグナノ湖がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、ブエノスアイレス湖とオイヒンス・サン=マルティン湖はチリとの国境を形成している。チクキタ海は国で最も大きい塩湖である。またアルゼンチンの多数の貯水池がダムによって作られている。アルゼンチンにはテルマス・デ・リオ・オンドの温泉などによって特徴付けられており、水温は30℃から65℃である。
地域によって大きく異なるが、亜熱帯、温帯、乾燥帯、寒冷帯の四つに大別される。
詳細はアルゼンチン軍を参照。
アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。志願兵制を採用している。歴史的にアルゼンチン軍は、チリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカで最もよく装備された軍隊だった。
アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1976年のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で汚い戦争に従事し、8,000人とも30,000人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。
しかし、建国以来初の敗戦となったマルビーナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝いりで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後の幾つかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしているようである。また、敗戦の結果としてガイアナ、スリナムを除いた南アメリカ諸国の中で唯一徴兵制を敷いてない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。
アルゼンチン陸軍 (Ejército Argentino)は兵員4万1400人からなる。軍団3。空挺旅団1、機械化旅団1、などを擁し、装備品はTAM200両、軽戦車150両。地対空ミサイルはタイガーキャットなど。
アルゼンチン海軍 (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員1万7200人からなる。8基地。潜水艦3隻、駆逐艦6隻、フリゲート7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製シュペルエタンダール11機、エグゾセ空対艦ミサイルなど。
アルゼンチン空軍 (Fuerza Aérea Argentina)は兵員1万2500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はミラージュ3シリーズ、A-4スカイホークなど。
詳細はアルゼンチンの経済を参照。
アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。
2回にわたる世界大戦に直接関与せず、各国への農産品畜産品の輸出により利益を得た20世紀半ばまでは世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、ペロン政権は民族主義的な政策により、保護政策による工業化偏重政策をとるが産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷。ペロン政権以降顕著になった福祉のための放漫財政や、ペロンの残した労働組合(CGT)の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発する政変、クーデター、1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争とその敗北、民政移管後も混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したた為に1988年のハイパーインフレーションを招き、この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外脱出が続くなど経済は混迷の度を深めた。
その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたメネム政権の新自由主義政策により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に安定した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(通貨ペソの対米ドル「ペッグ制」崩壊)により完全に暗転、2001年11月には国債をはじめとした対外債務の返済不履行宣言(デフォールト)を発する事態に陥り、経済が破綻。国際的な評価は地に落ちた。デフォールトにより貧困も拡大し、イタリアやスペインに職を求め大量の移民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は2005年には国民の約20%となり、かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国だったアルゼンチンはもはや過去のものとなった。20世紀半ばまでは南米の指導者としての実力を備えていたアルゼンチンは、もはや完全にチリ、ブラジルに先を越されてしまったといえるだろう。
現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネスエラとは政治面でも関係を深め、ベネスエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。
主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどの農産物に加え、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。
このようにペロン政権以来、一貫した経済政策が採られなかったツケが周り、2002年には経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入してから輸出が拡大し、着実に持ち直しつつある。キルチネル大統領は、2006年7月9日の「独立190年記念式典」で、「われわれは国際通貨基金(IMF)にチャオ(さよなら)を告げた。」と演説した。IMFの干渉を排除するため百億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2002年の経済崩壊以来の遅れから立ち直りつつある。とはいえ、再び上昇に転じた対外債務率、一向に回復しない内需、国民の30%にまで拡大した貧困層の存在など、課題は山積している。
現在のアルゼンチンの課題は、この成長を維持したままどのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みから来る投資リスクを如何に下げるかなどにかかっている。
詳細はアルゼンチンの交通を参照。
アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である。[2] 約215,471 km[3]の道路網と734 kmの高速道路が[4]あり、その多くが民営化された。 多車線の幹線道路は現在幾つかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。[5]
鉄道網は総延長31,902kmである。[4] 数十年に渡る整備不足とサービスの腐敗により、多くの路線は1992年の鉄道民営化に伴って閉鎖され、今も数千キロに渡る路線が修理されていない。鉄道輸送は幾つか都市で現役に戻されている。
アルゼンチンには約3,000kmに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。
アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。尤もヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%[6]から97%[7]と資料によって大きな差があり、また後述するように実はヨーロッパ系アルゼンチン人の過半数に先住民の血が流れている。
ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系の住民が多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られ、その独特の抑揚から「スペイン語の中でもっともセクシー」との呼び声も高い。
アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。また、強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜き目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性から来る、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も残念ながら出るのである。[8] これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。[9]
ペルーのノーベル文学賞作家、マリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、他のラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化が、アルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることが出来なかったためだと言われている。[10]ただし、ガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る。
五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人程で残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。
カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の 初の公的な人口調査では約1,757,000人となった。その後1900年には4,543,000人、1930年には1,186,000人、1940年には14,169,000人、1950年には約1709万人、1960年センサスでは20,065,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。
2005年の見積もりによると、人口は38,747,000人と推測され、これは南米大陸の国家で三番目に多い。人口密度は1平方kmあたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が14,000人/kmになるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km以下となる。なお、アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を越える国である[11]。
2008年現在では総人口が4000万人近くなっている。
19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アインデンティティにするようになった。
20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとの繋がりを重視する傾向があり[12]、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望と相俟って、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。
例えばディエゴ・マラドーナのように純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビーナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わって来ているようである。[13]
また、近年の研究では、実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっている。[14]
19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いて国を非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。その他にはスペイン内戦の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる。[15][16]
主なマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいる他、メスティーソ、ユダヤ人、アフリカ系アルゼンチン人、アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア族とアイマラ族、パタゴニアにマプーチェ族やテウエルチェ族などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人程いたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の砂漠の開拓作戦により20,000人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は420,000人になっている。
また、アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人はカトリックか東方正教、東方典礼カトリックなどを信仰しているようである。アジア系アルゼンチン人は日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて600,000人を越えるようである。
ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムが殆どだが、シリアからのセファルディムも15-20%程いる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会(特に軍部)の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人がイスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた。[17]
アルゼンチンの不法移民はやはり大多数が国境を接する大多数がボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニア、中華人民共和国などからもやって来ている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を750,000人と見積もっている。
アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。
353万人がブエノスアイレス市に、1240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第二、第三の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している。
19世紀以降に移民した殆どのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育等のさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。
1990年代に入り列車の操業が止まり、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れてきた。多くのスラムが大都市の郊外を囲み、都市の貧窮した下層労働者層や、内陸部の小さな町からの移住者や、さらに大きな数の近隣諸国からの移民が住民として住み、2001年の経済破綻後も離れようとしていない。
アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(但し、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリをモデルにして忠実に改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある(19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など)。
1999年度の都市人口率 は 89.1%である。
20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1000人の内191人が大学卒業者である[18]など、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先は主にスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジルなどである。
詳細はアルゼンチンの文化を参照。
アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物の両方によって構成された結果として、しばしば南米で最もヨーロッパ的な都市だといわれてきた。
もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。
この二つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる二つのアルゼンチンの精神を表しているものである。
詳細はアルゼンチン文学を参照。
アルゼンチンは20世紀で最も大きな反響を呼んだ文学者の一人であるホルヘ・ルイス・ボルヘスや、フリオ・コルタサル、マヌエル・プイグのような世界によく知られている文学者を何人も輩出している。
アルゼンチン文学は1850年代からラテンアメリカ文学のリーダーであった。国家形成における連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学のトーンを印象付けたようである。
例えば、ロサス時代の1845年に自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命先で書かれた、『ファクンド、文明と野蛮』は統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、フアン・ファクンド・キロガを野蛮の象徴として描き、ガウチョは近代化のための巨大な障害物と見做された。
それに対して1874年に書かれたホセ・エルナンデスのガウチョ文学『マルティン・フィエロ』は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。
文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、後のモデルニスモや20世紀の文学においても続いた。
詳細はアルゼンチンの映画を参照。
「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca 河口)地区出身のキンケラ・マルティンはボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。
ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもう一つのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いたフェルナンド・フェデールが有名である。 また、三国同盟戦争などを題材にした歴史絵画ではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペスなどが有名である。
詳細はアルゼンチン料理を参照。
日本では殆ど知られていないが、大畜産国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くのイタリア移民が持ち込んだパスタ類や、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子類等もバラエティに富んでいる。また、ブエノスアイレス、地方を問わずエンパナーダも広く食べられている。魚は、大きなスーパーや中国人街以外では、メルルーサ(鱈)か鮭くらいしか売っていないが、イグアスの滝に近い北部の亜熱帯地方ではスルビ(鯰の一種)、クージョのアンデス山脈付近ではトゥルーチャ(鱒)など、川魚を食べる地方もある。
アルゼンチンの主菜である肉料理は実に多彩であり、特にアサード、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、チョリソや臓物も含んだ焼肉の盛り合わせであるパリージャ(Parrilla)は有名。
アルゼンチンは世界有数のワイン生産国である一方、ほとんどを国内消費するため海外にはあまり知られていない。肉料理が多いことから、赤ワインが特に多く、品質も優れている。アルゼンチンのワインの六割がメンドーサで生産され、残りのほとんどがカファジャテで生産される。ヨーロッパではほとんどブレンドにしか用いないマルベック(Malbec)という品種は、アルゼンチンでもっとも味が良いとされている。 また、ウルグアイ程ではないが、近隣諸国と同様にグアラニー族由来のマテ茶を飲む習慣もある。アルゼンチンでは砂糖を入れて飲むことが多い。
詳細はアルゼンチン音楽を参照。
アルゼンチンはブラジル、コロンビアと共に南米の音楽大国の一角を占める。
世界的にウルグアイのモンテビデオと共に、ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界ではアルゼンチン・タンゴと呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代からカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退を辿るが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。
このようにアルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージと共に、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などの様々なフォルクローレ(民謡)が存在する。こうしたフォルクローレは幾つか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも元々はアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少と共にアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。
アンデスのフォルクローレの代表曲である花祭り (ウマウアカの男)はウマウアカのカルナバルを歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本に最も早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認したアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサ、ウニャ・ラモスらは世界的に有名であり、日本限定だがグラシェラ・スサーナも有名である。
そしてそれだけがこの国の音楽の全てではなく、クラシックやジャズやポップスの分野でも、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、イングリット・フリッター等、時折注目すべき人物を輩出することもある。1960年代生まれからは、作曲や指揮の領域でも傑出した人材を輩出している。
ポップスの分野では特にロックが盛んな国であり、国外にもアルゼンチン・ロックの愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンはロス・シェイカーズやロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈場となったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイ人の攻勢が終わった後も、ロス・ガトースなどのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。
近年ではアルゼンチン音響派がまるでかつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動の如く新たなムーブメントとなっており、フアナ・モリーナやサンチャゴ・バスケス、マレーナ・ムヤラなどは日本でも人気を博している。
また、アルゼンチンが発祥となった音楽ではないが、2002年には日本のロックバンド・THE BOOMの「島唄」が俳優のアルフレッド・カセーロに日本語のままカバーされ大ヒットしたことは記憶に新しい。彼の歌う島唄はその年に開催された日韓ワールドカップのアルゼンチン代表の応援歌としても採用された。
言語はスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカスティシャーノと呼ばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民)のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。また、アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数においてボセオ(Voseo)のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。
スペイン語の他には英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、及び多少の先住民言語なども使用されている。
標準ドイツ語は400,000人から500,000人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、1,800,000人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第三か第四に多くの人々に話されている言葉である。
調査によると、1,500,000人が イタリア語を話し、1,000,000人がシリア・レバノンのアラビア語を話している。ガリシア語、イディッシュ語、日本語なども話されているが、これらの言語は現在ではあまり話されることは少なくなって来ている。パタゴニアのトレレウやガイマンといった町にはウェールズ語を話すコミュニティがある。
先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州でグアラニー語が話され、コリエンテス州では公用語となっている。ケチュア語は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、アイマラ語はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアではマプーチェ語などが話されている。
近年のアジア系移民は中国語と韓国語をブエノスアイレスに持ち込んだ。
英語、ブラジル・ポルトガル語、フランス語は余り大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、ポルトガル語とフランス語が後に続く。
アルゼンチン人は圧倒的に信仰心が強い。国民の大多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、多くは信仰に熱心ではなく、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている[19]。なお、公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない(カルロス・メネムはイスラーム教を棄教しなければならなかった)。
1980年代からプロテスタントの福音派が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。
330,300人以上が末日聖徒イエス・キリスト教会に所属しており、これは世界で七番目に多い。
ラテンアメリカで最も多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。
イスラーム教徒は総人口の1.5%を占め、500,000-800,000人がいると推測されている(93% はスンナ派)。現在アルゼンチンはラテンアメリカで最もモスクの多いの一つ国となっている。
おおよそ12%が無宗教、もしくは世俗派とみなされている。
詳細はアルゼンチンの教育を参照。
独立後、アルゼンチンの自由主義者は公教育に力を注ぎ、今日では識字率は97.5%に達する。これはウルグアイやキューバと共にラテンアメリカで最も高い水準である。
幼稚園から初等教育が始まり、5歳から14歳までの10年間が無償の初等教育、前期中等教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等、中等教育の問題としては落第率の高さや予算不足から来る十分な授業日数確保の不備などが挙げられる。
2005年現在で、アルゼンチンには41校の国公立の大学と48校の私立大学があり、代表的な高等教育機関としてはブエノスアイレス大学(1821年)、コルドバ大学(1613年)、ラ・プラタ大学(1905年)、国立工科大学(1959年)、ロサリオ大学(1968年)、アルゼンチン・カトリカ大学(1958年)などが挙げられる。国公立の大学は学生数の増加による過密や、非効率な制度による学校運営の混乱が大きな問題となっている。
ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントは多くの小学校や各種学校を建設して「教育の父」と呼ばれた。
アルゼンチン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が4件ある。詳細は、アルゼンチンの世界遺産を参照。
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ロス・グラシアレスの国立公園 - (1981年、自然遺産) |
サン・イグナシオ・ミニのイエズス会伝道所- (1983年 / 1984年、文化遺産) |
イグアス国立公園 - (1984年、自然遺産) |
バルデス半島のオタリアたち- (1999年、自然遺産) |
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リオ・ピントゥラスのリオ・ピントゥラスのクエバ・デ・ラス・マノス - (1999年、文化遺産) |
イスキグアラスト/タランパヤ自然公園群 - (2000年、自然遺産) |
コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群 - (2000年、文化遺産) |
ウマウアカの渓谷 - (2003年、文化遺産) |
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Nuevo Año | |
| 移動祝日 | 聖金曜日 | Viernes Santo | |
| 4月2日 | 退役軍人の日およびマルビーナス戦争戦没者追悼の日 | Día del Veterano de Guerra y de los Caídos en la Guerra de las Malvinas | マルビーナス戦争での死者を追悼する日。 |
| 5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
| 5月25日 | 最初の政府を記念する日(五月革命記念日) | Primer Gobierno Nacional (Revolución de Mayo) | |
| 6月第3月曜日 | 国旗の日 | Día de la Bandera | |
| 7月9日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
| 8月第3月曜日(8月17日) | サン=マルティン将軍の命日 | Muerte del general José de San Martín | |
| 10月12日 | 民族の日 | Día de la Raza | |
| 12月8日 | 無原罪の聖母 | Inmaculada Concepción de María | |
| 12月25日 | クリスマス | Navidad |
註1: もし該当の日が火曜日か水曜日ならばその直前の月曜日、木曜日か金曜日ならばその直後の月曜日に移動する。
詳細はアルゼンチンのスポーツを参照。
大変サッカーが盛んで、ディエゴ・マラドーナを筆頭にサッカー史上に残る名選手を多く輩出し、ブラジルと並ぶ南米の強豪として知られている。代表チームはFIFAワールドカップの常連であり、優勝2回、準優勝2回を誇る。1978年には、FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会が行われた。国内リーグもリーベル・プレート、ボカ・ジュニオルス、CAサン・ロレンソ、ラシン・クラブなどの名門クラブが鎬を削っている。
サッカー以外では、テニスが有名で、テニスを国技と称するスウェーデンと並んで、70年代から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。70年代後半のギレルモ・ヴィラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出しており、2004年の全仏オープンテニスにおいては史上初のアルゼンチン勢同士の決勝戦が行われている。最近も、アルゼンチン勢のテニスの躍進は凄く、クレー(赤土)コート以外でも、好成績を残す選手が続出している。
また、ラグビーはロス・プーマスの愛称で親しまれているナショナル・チーム、アルゼンチン代表が強豪国を破る実力をつけてきている。伝統的に屈強のフォワードと意外性のあるバックスの選手を輩出している。1999年の第4回ワールドカップ(W杯)ではベスト8に進出、スタンドオフのケサダが安定したキックで得点王に輝いた。2007年大会では開催国フランスを2度下し、3位に輝いた。 また、ファン=マルティン・エルナンデス、イグナシオ・コルレト、アウグスティン・ピジョットらが非常に人気選手であり、彼らはフランスの強豪スタッド・フランセでプレイ中。
富裕層を中心にモータースポーツ(F1草創期の世界チャンピオン、ファン・マヌエル・ファンジオやカルロス・ロイテマンなど多数のレーシングドライバーを輩出)も人気がある。フアン・ペロンやエバ・ペロンも楽しんだという。
バスケットボールも第1回世界選手権の開催国という事もあり人気が高く、エマヌエル・ヒノビリ、ファブリシオ・オベルト、アンドレ・ノシオーニらNBAプレイヤーも輩出している。また、アテネ五輪では金メダルを獲得している。
ボクシングにおいても、70年代の世界ミドル級王座に長期政権を築いた名王者カルロス・モンソン、ジュニア・ウェルター級の世界王者ニコリノ・ローチェらを輩出している。また2000年代にもフライ級でオマール・ナルバエスが長期政権を築いている。
アルゼンチンは化学部門で三人のノーベル賞受賞者を出している。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学賞授賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。
また、ベルナルド・ウサイのような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。 他にも素粒子物理学の指導的存在であるフアン・マルダセナがいる。
現在の問題は、大学の整備の遅れによる研究環境の不備や、海外への高学歴者の流出による基礎研究、応用研究の進展が遅れていることなどである。
アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙「クラリン」であり、スペイン語圏で最も流通している新聞の内の一つとなっている。[要出典]その他の新聞としては1870年創設の「ラ・ナシオン」(中道右派)、Página/12 (左派)、アンビト・フィナンシエロ (保守ビジネス紙), ドイツ語新聞のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語とフランス語で発行されるLe Monde Diplomatique、クロニカ (ポピュリズム)。地方紙として重要なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸部の声」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。
アルゼンチンの出版業はスペイン、メキシコといったスペイン語圏の主要国の出版業と共にある。アルゼンチンにはエル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。また、雑多な趣味の領域をカバーした百を越える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。
アルゼンチンはラジオ放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、Sociedad Radio Argentinaは「我々は今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています。」と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかったが。 世界初の放送局はその時から、Radio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチンの唯一無二のラジオ局だった。その後1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がその他の都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金時代」だった。[20]
現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。[要出典] ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース、討論、スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオは未だに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。
アルゼンチンのテレビ業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることが出来る。多くのローカル番組が他国で放送され、その他は外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには五つの主要ネットワークがある。全ての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している。[21] ケーブルネットワークはアルゼンチンと他のスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ(合衆国、メキシコも同様)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、及びニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。
アルゼンチン共和国の象徴となっているものを列挙する。
決して中立的な内容ではないが、確かにアルゼンチンの悪い面を的確に描いているという側面があるのでここに載せる。
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| アルゼンチン ボリビア ブラジル チリ エクアドル コロンビア ガイアナ パラグアイ ペルー スリナム ウルグアイ ベネズエラ |
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|---|---|
| アングロアメリカ | アメリカ合衆国 | カナダ |
| 中央アメリカ | エルサルバドル | グアテマラ | コスタリカ | ニカラグア | パナマ | ベリーズ | ホンジュラス | メキシコ |
| 西インド諸島 | アンティグア・バーブーダ | キューバ | グレナダ | ジャマイカ | セントクリストファー・ネイビス | セントビンセント・グレナディーン | セントルシア | ドミニカ共和国 | ドミニカ国 | トリニダード・トバゴ | ハイチ | バハマ | バルバドス |
| 南アメリカ | アルゼンチン | ウルグアイ | エクアドル | ガイアナ | コロンビア | スリナム | チリ | パラグアイ | ブラジル | ベネズエラ | ペルー | ボリビア |
| 地域 | アメリカ合衆国:米領ヴァージン諸島 - プエルトリコ | イギリス:アンギラ - 英領ヴァージン諸島 - ケイマン諸島 - タークス・カイコス諸島 - バミューダ諸島 - フォークランド諸島 - モントセラト | オランダ:アルバ - 蘭領アンティル | デンマーク:グリーンランド | フランス:グアドループ - サン・バルテルミー島 - サン・マルタン島 - サンピエール島・ミクロン島 - 仏領ギアナ - マルティニーク |
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