|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千葉県(ちばけん、英語表記:Chiba Prefecture)は、関東地方の中央東側、東京都の東に位置する県。県庁所在地は千葉市。都道府県人口は、埼玉県に次いで全国6位、面積は全国28位である。 公式キャッチフレーズは、『おもしろ半島ちば』である。
目次
|
千葉県は、関東地方の南東部に位置する県で、房総三国、すなわち律令制以来の上総国・安房国・下総国から成り立つ。但し、下総国のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡の三郡と相馬郡・葛飾郡二郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡の一部は、それぞれ、東京都と埼玉県に編入されている。1873年(明治6年)6月15日に、北部の印旛県と南部の木更津県の合併し、千葉県が成立した。その後、1875年5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に移して現在の県域がほぼ完成した。
三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は丘陵地帯だが、標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところも多い。最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。
平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。人口は県北西部で特に稠密である一方、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでおり、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として石油化学コンビナートや製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。
千葉県は、日本列島の丁度中心にあたり、県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと南西諸島以外の日本列島は半径1000圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は、東京湾と三方を海に囲まれた(房総)半島になっていることである。この地理的条件は、常に半島であることが重要視され、袋小路的な閉鎖性が近代に高まった陸上交通中心の見地から問題視されることも多いが、同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もあった。また、隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割や覇者の起死回生の地としての役割を担ってきた。
千葉県の北半分は、大半が関東平野で、最も高い愛宕山でも海抜408m、平均海抜は約43mで都道府県の中で一番標高が低い県となっている。ちなみに、10メートル海面が上昇すると千葉県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている[1]。 実際、数千年前までは、もっと現在より水位が高く、現在の千葉県の多くの低地が海面下で、南部の古東京湾と北部の香取海によって本州と分断されていた。
房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が数倍に増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。
地質的には北部が第四紀の沖積層、南部は第三紀層および白亜紀堆積層。
東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。半島南部には房総丘陵、半島中央部には上総丘陵と上総台地 、半島北部には下総台地があり、これらの台地や丘陵には侵食によってできた谷底平野がみられる。一方で半島の北部から中部にかけて下総台地を囲む形で西に江戸川低地・東京湾岸低地、北に利根川下流低地、東に九十九里沖積低地が分布する。
河川利根川、夷隅川、栗山川、小櫃川、養老川、一宮川、小糸川、南白亀川、村田川、作田川、木戸川、塩田川
湖・沼手賀沼、印旛沼、大利根用水、両総用水、成田用水、東総用水、利根運河、利根川河口堰、黒部川水門、北千葉導水路、房総導水路、行徳可動堰、江戸川水閘門(江戸川水門)
海・海岸館山湾、東京湾、太平洋
自然公園 国定公園県名の起こりは、廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際に千葉郡千葉町に県庁が置かれたため、その地名が採用された。又、千葉地名がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)、律令制以来の郡名(千葉郡)に見られる。千葉地名の由来については、諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、(1)実り豊かな豊穣の地を示しているとも(2)たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも(3)土地と子孫の繁栄を願っての地名だとも説かれる。なお、日本書紀と古事記の両書には、応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯をのぞんでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が千葉地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている。 (和歌については、以下を参照)
現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くにみえるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている。(和歌については、以下を参照)
地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。
今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈が小島として水面上に出ているのみだった。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80-100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていた。台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。
房総に来た最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。旧石器時代の人々は、ナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活が営まれていた。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しいく、長野県の中部高地や神奈川県の箱根山、伊豆の神津島などから運ばれたと考えられている。現在の学術調査から旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されている。また、印旛村では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に国立科学博物館収蔵)。
縄文時代がはじまる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5-10mほど高くなり、関東平野には古東京湾と古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約1500ヶ所を数え、関東地方には、約1000ヶ所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600ヶ所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には500ヵ所ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曾利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曾利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の推積状態を観察することが出来る。
関東では、関西より、百年遅れて紀元前2世紀から紀元前3世紀頃にかけて弥生時代となるが、房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから俗に「黒潮文化」と呼ばれる。
県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会にはいると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済にかわり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した、政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模で、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。
弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラがつくられ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。
房総半島は、古墳時代には「捄国」(古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名をとって安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まわっていたとされる。
又、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き神八井耳命の血を引く肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされている。延喜式神名帳によると平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみである。
県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総における大和王権の影響力が見られる。その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、十一の国造がおかれたとされる。
県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からもわかるように古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
なお、遺跡の多くは、山(標高20m-30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」と成っていたためで、この影響は、平安から鎌倉期まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにも見受けられる。
6世紀後半になると畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある竜角寺古墳群(古墳総数は111-124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。竜角寺古墳群は5世紀に始まったとされ、7世紀末までの三百年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は七世紀中葉近くの時期におよび、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳といわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。そして、岩屋古墳の北北西約1の場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られ、現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もある。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者が大和王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれた瓦が出土している。その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。
大化の改新後、捄国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年に上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び分裂された。
地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、日本書紀には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった六十八の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と延喜式には記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていた。
平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生しはじめる。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いをふるったが、平安時代の平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこおなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。
この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は、下総国千葉荘園を本拠とした豪族で、坂東八平氏の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と高城氏、遠藤氏は明治維新まで存続する。
しかし、千葉氏もこの時期は、俗に言う私営田領主(在地領主)で、国司が交代するたびに荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。
1180年、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏をはじめとする総州の諸侯(安西氏、葛西氏など)が支援がしたことによって、わずか1ヶ月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。
一方、上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。
鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役、弘安の役に参加し戦功をあげた。
しかし、同時期から千葉介の継承をめぐり、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、1333年に鎌倉幕府を打倒すると対立は表面化、それぞれ、足利高氏と新田義貞双方に属し、1336年に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、1365年の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。
さらに室町時代になると関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の諸氏の勢力が衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、1455年の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏(詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏((詳細は北条征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。
一方、上総国では、上総武田氏が、安房国では、1440年の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになる。(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)
1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。 一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。その後、引き続き安房を領有していた里見氏も江戸時代になると、改易、断絶することになる。
江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役をつとめた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務めた。ちなみに下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新に徳川家達の駿府移封に伴い移封した藩があり、廃藩置県まで続いていく。
江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しんむ農民を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。
江戸時代を通じて県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。そのほかにも風土や立地に恵められていたことから薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉[2]対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年関東地方でも栽培であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名である。下総国薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。また、江戸近郊に位置していたため、軍馬の養成のため小金牧・佐倉牧・嶺岡牧の3つの幕府直轄の牧が設置されていた。嶺岡牧では、徳川吉宗時代に、インド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本ではじめて生産[3]された。牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所や江戸名所の一つに数えられ、松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。
江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、宿場町や継立場などの交通設備も整備された。
武蔵国との境界の変化 近世初期(1683年(貞享3年)、また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)、下総国葛飾郡の一部、すなわち隅田川から利根川までの地域(現在の墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区等)[4]を武蔵国に編入、境界を改め武蔵国葛飾郡とした。江戸城無血開城に伴い県域では、市川・船橋戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。 安房国、上総国と下総国の一部が現在の千葉県となる。1871年の廃藩置県によって、印旛県・木更津県・新治県を設置。1873年6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(千葉市街地)に開設された。1875年5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。更に1899年4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。
明治初年の1869年には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者をはじめとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの村が新しく作られた。
また、東京に近かったことから、明治6年の明治天皇の習志野原への初行幸以来、首都防衛を名目に習志野をはじめ、千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。太平洋戦争の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲の為の前線基地も置かれた。なお、県や各市町村もこのような軍事拠点を造ることが、重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。その中でも千葉市には、千葉連隊区司令官をはじめ、多くの軍営施設が造られたことから軍都千葉と呼ばれた。
近代になると政府主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業の一つとなった。しかし、御料牧場は、1969年に新東京国際空港の建設計画に伴い、栃木県高根沢町に移転することになる。
1904年に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦、黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線、久留里線、小湊鉄道などの路線の建設に従事した。
大正・昭和初期にかけて鉄道をはじめとする交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや南房総には、避暑地や観光地、谷津遊園、中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業[5]が盛んとなった。
1941年、太平洋戦争が始まれると千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地でおこなわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。一方、軍需工場も東京に近い市川市・船橋市・津田沼町、千葉市にかけて次々と移転し、1942年には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。同時に地域では、中小企業の合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年に東京大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に設置されると造兵研究の拠点にもなった。
1944年、サイパン島・グアム島が占領され、日本本土への空襲が本格化すると房総半島は、B-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では、激しい空中戦がおこなわれるようになるが、県内の被害は軽微で、艦載機を中心に港湾施設や集落に対して機銃掃射が行われたり、帰還途中に不要爆弾が投下されるようなことはあったが、市川空襲や千葉空襲、銚子空襲以外に本格的な空襲は加えられなかった。しかし、砲銃爆撃による犠牲者は少なくない。
一方、大戦末期になると本土決戦の可能性が高まり、連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者[6]。とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍及び大政翼賛会は住民志願者を募り、国民義勇軍防衛隊を組織、竹槍による軍事教練や陣地構築が実施されたが、日本の降伏により県内では地上戦は行われずに終戦を迎えた。ちなみに、この時、東条英機首相にかわり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれたことは有名な話である。
1945年9月3日敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設及び一部の公共施設が進駐軍に接収された。同年十月に千葉市に進駐、千葉県庁本館二階に占領政策のため本部が設置された。翌年の1946年7月には千葉軍政部に改称、1949年11月まで、GHQの軍政下におかれる。また、県内各地の特攻隊基地(震洋・桜花・回天・海竜・蛟竜・S特攻部隊等)や館山海軍砲術学校、陸軍習志野学校をはじめとする旧日本軍関係施設が進駐軍によって調査される。 ※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。
県内各地で、食糧難から買出し者が集まり、闇市が自然に発生する。戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団 習志野事業部による習志野開拓などの救済事業が実施される。
1950年以降、東京湾沿岸の埋め立てをはじめ、県内各地での開発本格化する。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。首都近郊県の責務からベッドタウンの開発が進み、いわゆる『千葉都民』が急増する。県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン、成田ニュータウン、千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925-1982)、船橋ヘルスセンター(1955-1977)、マザー牧場(1960-)、東京ディズニーランド(1983-)などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。
1978年には新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港、1989年には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げたが、戦前まであった房総らしい、風景や情緒など観光資源の数多くが失われてしまったという意見も若干ながらあり、『三番瀬埋め立て問題』が発生し、堂本暁子知事の時に埋め立てが中止された。また、近年、千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、『花と海』をテーマにイメージアップを図ろうしているが、あまりインパクトが無いという意見も存在する。
1997年には、東京湾アクアライン(木更津-川崎間)が開通、半島の流動性が高まり、今後の発展のための布石となるかどうか注目されている。
なお、経済発展の一方で、日本各地において、公害が発生し、社会的に大きな問題となった。千葉県も例外ではなく、1950年代以降の急激な開発による人口増加と未熟な行政政策[7]、環境技術の未発達のため、生活排水や工業排水、農薬などが、県内各地の河川や沼[8]などに流入、東京湾などでは、水質汚染が一時、深刻な問題となり、海洋資源にダメージを与えた。また、工場による工業用水の地下水を過剰汲み上げした事による地盤沈下が深刻化し、船橋市では昭和49年に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。マイカーブームによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグ、ゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染などの環境問題も深刻化した。近年においては、印旛地域などを中心に産業廃棄物や感染性医療廃棄物、硫酸ピッチなどが田んぼや山林に埋められるなどの、不法投棄も問題になっている。このため、千葉県では、環境系のNPOや市民団体を積極的に支援したり、平成20年に千葉県環境基本計画を制定するなど環境方面に力を入れる傾向が見られる。
また、県民の生活にも大きく影響を与えており、開発の中では、強いニーズ(東京近郊都市の住宅供給の義務・大規模工場や企業の誘致に伴う臨海部の埋め立て・飛行場開発・ゴルフ場開発等)や不動産高騰などによる、有効的な土地利用のあり方など、土地所有者・デベロッパー・行政などの意見や思惑の違いから不信感が生まれ、禍根を残す事も多く、県内で代表的な事例を挙げると成田国際空港建設による「三里塚闘争」などが挙げられる。近年では、周辺住民の意見も無視出来ず、市川などの都市部では日照権や景観、防災上の理由からマンション建設反対運動もいくつか起きている。
成長期の段階的な一斉開発・入植によって住民構成が、積層化されてしまい、人口に偏りが生じ、常盤平団地などに代表されるように地区において集団高齢化が進んだり、浦安市のように今後、少子高齢化のため、極端に小学校などの教育施設が余剰する一方で、福祉施設が不足するなどのケースもある。ちなみに最近の八千代市などのように東葉高速鉄道沿線の開通に伴い急速な都市開発が行われ発展期を迎えている地域も存在し、逆に教育施設の不足が問題となっているが、今後、先に述べた松戸や浦安のようになる可能性が指摘されている。
その他に、あまり表面上では見えないが、政令指定都市をはじめとした開発が盛んに行われた都市の郊外では、入植時期や入植経緯の異なる住民が同じ地域に同居する形となり、町内活動が活発でない地域や住民の家庭構成によっては、コミュニティが希薄化するなど、住民の意識間にズレや溝がある場合もある。以上のような現象は、地方分権の体制が比較的維持されていた戦前の千葉県には、あまり見られなかった社会形態である。(但し、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)
地域ごとの問題も数多くあり、具体例としては、浦安市、市川市、船橋市、鎌ヶ谷市[9]などの東葛地区でよく話題となる道路問題が挙げられる。
これは、
などに起因し、生じた問題であり、開発が殆ど終わった今日では、道路の拡張や都市計画道路の整備を進めようにも計画上の地点には既に建物があり、用地買収も困難なのが実情である。このため、緊急車両の通過が困難だったり、交通事故の危険性が高く、府県別事故率ランクでは、上位5位以内に入る。ちなみに交通渋滞が名物化している。また、これらの地域では、下水道整備などのライフラインの整備の遅延や住宅の密集化による防災上の問題もあわせて発生している場合が多い。(但し、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)
ほかにも、地方の過疎化(印旛及び房総半島周辺)や都市部(東京湾沿いの臨海地域周辺)の高齢者増加に伴う福祉の問題、など今後、解決しなければいけない課題が山積であるが、これに加え、財政難も重なり、千葉県をはじめとする県内の各市町村では、解決策の糸口を『まちづくり』・『市民協働』という言葉に求める傾向がある。(但し、このような傾向は、全国的に共通である。)
だが、新たに開拓された天然ガスなどの天然資源や近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。また、市民ベースだが、エコツアーやアグリツーリズム、使用されなくなった農耕地を利用した市民農園やクラインガルテンを設置など、地域風土(自然環境や農業・漁業等の地場産業)を活かした新たな体験型観光ビジネスモデルに関しての模索も行われている。そのほかにも従来の近郊農業に加え、農産物や酪農、林業などの分野に関する研究も行われており、新たなブランド品種の開発も試みられている。
年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]
| 年齢 | 人口 |
|---|---|
| 0 - 4歳 | |
| 5 - 9 | |
| 10 - 14 | |
| 15 - 19 | |
| 20 - 24 | |
| 25 - 29 | |
| 30 - 34 | |
| 35 - 39 | |
| 40 - 44 | |
| 45 - 49 | |
| 50 - 54 | |
| 55 - 59 | |
| 60 - 64 | |
| 65 - 69 | |
| 70 - 74 | |
| 75 - 79 | |
| 80歳以上 |
年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]
| 女 | 年齢 | 男 |
|---|---|---|
| 139 |
0 - 4歳 | |
| 140 |
5 - 9 | |
| 143 |
10 - 14 | |
| 162 |
15 - 19 | |
| 197 |
20 - 24 | |
| 230 |
25 - 29 | |
| 262 |
30 - 34 | |
| 229 |
35 - 39 | |
| 196 |
40 - 44 | |
| 186 |
45 - 49 | |
| 222 |
50 - 54 | |
| 239 |
55 - 59 | |
| 221 |
60 - 64 | |
| 173 |
65 - 69 | |
| 127 |
70 - 74 | |
| 85 |
75 - 79 | |
| 71 |
80歳以上 |
| 千葉県と全国の年齢別人口分布図(比較) | 千葉県の年齢・男女別人口分布図 |
|
■紫色は千葉県
■緑色は日本全国
|
■青色は男性
■赤色は女性
|
| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |
(2008年4月21日現在)
| 会派名 | 人数 |
|---|---|
| 自由民主党千葉県議会議員会 | 56 |
| 民主党千葉県議会議員会 | 21 |
| 公明党千葉県議会議員団 | 7 |
| 日本共産党千葉県議会議員団 | 4 |
| 市民ネット・社民・無所属 | 4 |
| 無所属 | 2 |
| 欠員 | 1 |
| 選挙区名 | 定数 | 選挙区名 | 定数 | 選挙区名 | 定数 | 選挙区名 | 定数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 東葛飾郡 | 1 | 千葉市若葉区 | 2 | 成田市 | 2 | 鴨川市 | 1 |
| 印旛郡 | 1 | 千葉市緑区 | 1 | 佐倉市 | 3 | 鎌ケ谷市 | 2 |
| 長生郡 | 2 | 千葉市美浜区 | 2 | 東金市 | 1 | 君津市 | 2 |
| 山武郡 | 3 | 銚子市 | 2 | 八日市場市 | 1 | 富津市 | 1 |
| 香取郡 | 3 | 市川市 | 6 | 旭市 | 1 | 浦安市 | 2 |
| 海上郡 | 1 | 船橋市 | 7 | 習志野市 | 2 | 四街道市 | 1 |
| 匝瑳郡 | 1 | 館山市 | 1 | 柏市 | 4 | 袖ケ浦市 | 1 |
| 夷隅郡 | 2 | 木更津市 | 2 | 勝浦市 | 1 | 八街市 | 1 |
| 安房郡 | 2 | 松戸市 | 7 | 市原市 | 4 | 印西市 | 1 |
| 千葉市中央区 | 3 | 野田市 | 2 | 流山市 | 2 | 白井市 | 1 |
| 千葉市花見川区 | 3 | 佐原市 | 1 | 八千代市 | 2 | 富里市 | 1 |
| 千葉市稲毛区 | 2 | 茂原市 | 2 | 我孫子市 | 2 |
東京都区部に近い場所として近郊農業が盛んで、農業産出額(2002年)は全国第二位。品目別産出額(2001年度)では大根・葱・蕪・里薯、さらに梨の生産出荷量(2002年)が全国第一位。なお、二十世紀なしは1888年に松戸市のゴミ捨て場から発見された木が発祥とされている。南房総では暖かい気候を利用した花の栽培が盛んで、花の産出額(2001年度)は全国第二位。
特産品としては落花生が全国的に有名である。千葉県の落花生栽培の先駆者として有名な金谷総蔵は、開墾したばかりの痩せた土地にも良く育つ作物を探していたところ、1878年、県令から勧められ落花生の栽培を始める。その後栽培地域は干潟地方(匝瑳郡と海上郡にまたがる地域)から山武郡、香取郡、印旛郡など北総一帯へ瞬く間に広がり、千葉県を代表する作物となった。金谷総蔵の死後、その功績が認められ1906年農商務大臣、1968年農林大臣より表彰される。また、旭市鎌数の伊勢大神宮に「落花生の碑」が建てられている。ちなみに千葉県で最初に落花生が栽培されたのは、1876年の牧野万右衛門が最初といわれている。
また日本の酪農発祥の地とされる。徳川吉宗により、1728年にインド産といわれる白牛(はくぎゅう)が輸入され、現在の南房総市(旧丸山町)で乳製品作りが始まったのが起源とされている。生乳生産量では全国第三位(2000年)。
漁業総生産量(2002年)は全国第五位。銚子港は全国有数の漁港であり、館山、勝浦などでも盛んである。鰯や鯖の水揚げが多い。
東京内湾では海苔の養殖も盛ん。かつては遠浅の干潟が広がる千葉市など東京湾奥部でも養殖が盛んに行われていたが、沿岸の埋め立てに伴い、消滅した。現在は、木更津市や富津市、船橋市などの遠浅の海で養殖されている江戸前海苔は、最高級江戸前海苔として珍重されている。また、近年、香りや味の良いアサクサノリを復活させる試みが始まっている。
|
|
|
|
|
県下には、36市6郡17町3村がある。町は「ちょう」ではなくすべて「まち」と読む。
県庁による地域区分には、4地域の分類と、県庁および県民センターの所管区域による6区分とがある。4地域区分、南地域は南房総県民センターの所管区域と同等であるが、西地域と東地域と中央地域は再編されて県庁直轄と3つの県民センター所管区域に分割されている。(2007年4月1日-)県の総人口は6,134,039人。人口は、2006年4月1日現在の登録人口(住民基本台帳人口及び外国人登録人口を合算した人口)である。
4地域区分
県庁および県民センターの所管区域による分類
千葉県を都市部と農村部に分けることがあるが、市部と郡部の区別とは違い、この場合は新住民が多数を占める地域を都市部、旧住民が多数を占める地域を農村部と呼ぶ。都市部は北西部、農村部は北東部と南部の範囲とほぼ一致する。性格は、新住民と旧住民との間では異なっている。
北部・北西部 県央地域、葛南地域、東葛飾、印旛地域を指す。東京都区部に近いため、宅地化が進んでいる。東京湾沿岸側の埋立地には、京葉工業地域や千葉港などの港があり、東京ディズニーリゾート、ららぽーと、幕張新都心などを中心に、新たな街造りが展開されている。いわゆる「千葉都民」の多い地域で、中でも浦安市は、住民の平均年齢が最も低い市である。 内陸部側も同じく内陸工業団地の造成や宅地化が進み千葉ニュータウンや成田ニュータウンなどの大規模ニュータウンが造成されている。また年間約3100万人が利用する成田国際空港が位置し国際交通の足場となっている。内陸部側は、北総又は印旛と呼ばれている(ただし「北総」には東京湾岸や東総地域など旧下総国地域全体を指す場合もある)。 狭義では、千葉市周辺を除いて、旧東葛飾郡(現在の船橋や我孫子など)の範囲を指す事もある。東葛は千葉市との繋がりが浅く、全国紙の地方版も、千葉市周辺版と東葛版に分けられている。 スポーツ界では、特に東葛は「サッカー王国」として有名である。アマ界を見ても、高校サッカーにおける激戦区の一つであり、船橋市立船橋高等学校、習志野市立習志野高等学校などが全国制覇を複数回成し遂げているほか、強豪校が私立・公立ともに多い。 北東部 主に香取地域、海匝地域と東上総地域の一部の事を指す。概ね国道51号や国道126号の沿線。香取神宮などの有名な神社仏閣が鎮座する。 鹿行(鹿嶋市などの茨城県南東部)との交流関係が深いため、「ちばらき」と諷刺される事もある。かつては利根川の運河交通の要衝として栄えた佐原(香取市街地)などがある。香取市から鹿嶋市に至る利根川沿いから形成される「水郷」と呼ばれる観光地を抱える。東端には漁業と醤油産地として有名な銚子市があり、周辺は比較的温暖な気候の為、畑などでは、メロン、キャベツ、植木などが栽培されている。太平洋岸を南に向かって美しい海岸線の九十九里浜が走る。 成田空港以東の下総台地を構成する地域は、東総と呼ばれており、「香取干潟八万石」といわれる所で、水田地帯が広がる。 スポーツ界では、この地域出身のプロ野球選手が多く、千葉県立銚子商業高等学校、銚子市立銚子高等学校、横芝敬愛高等学校卒業生が目立つ。 南部 南房総(房総半島南部)は特に温暖な気候であり、県花である菜の花やポピーの栽培が行われている。漁業も盛んで、勝浦漁港は国内有数の鰹の水揚げ港である。房総丘陵を構成する地域の半島南部は南総と呼ばれている。
|
|
|
|
|
|
|
|
また、地域限定の新聞として以下の新聞がある。
全国紙、ブロック紙(東京新聞)は夕刊も配達するエリアである(ただし産経新聞の関東向けの版では夕刊が廃止された)。
放送区域は関東広域圏に属する。
放送大学テレビ、東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ)は県北西部の一部が可聴範囲に入り、送信所のある東京タワーに向けてUHFアンテナを立てるか、CATVを通じて視聴している世帯も少なくない。MXは送信アンテナの位置が低いため、放送大学テレビと比べ可聴範囲が広くない。なお放送大学本部は千葉市美浜区にある県内に主たる事務所を置く放送局である。
また北西部の一部のUR賃貸住宅などではテレビ埼玉(テレ玉)に、東京湾岸地域ではテレビ神奈川 (tvk) にもアンテナを向けている世帯がある。ただし北西部ではNHK石岡中継局と混信してしまう地域がある。
余談だが、近畿広域圏の大阪府と同様に県域放送局を除けば広域放送しか視聴出来ない府県の1つでもあり、独立UHF局でも全くネットされていない番組は視聴することが出来ない。
AMラジオは、関東広域圏の局が受信できるが、受信状況には県内各地により差がある。また日本の制度外の放送波ではあるが、AFN東京の電波も一部地域で届いている。
FMラジオは、東京都のエフエム東京(TOKYO FM)、J-WAVE及び放送大学FMが、北部の広範囲と東京湾沿いの地域で受信できる他、神奈川県の横浜エフエム放送(Fm yokohama)、埼玉県のエフエムナックファイブ(NACK5)、山梨県のエフエム富士(FM FUJI)三ツ峠中継局が県内の一部で受信できる。
Category:千葉県のケーブルテレビ局を参照。
上記の他、下記の放送局の親局送信所が千葉県内にある。
※2004年4月1日から県立博物館・美術館の利用料金が有料になった。
千葉県立美術館(千葉市中央区)
北西部から南東部に向け記載
浦安市
市川市
船橋市
八千代市
野田市
松戸市
我孫子市
柏市
佐倉市
成田市
印旛郡栄町
印旛郡印旛村
千葉市
習志野市
銚子市
旭市
香取市
匝瑳市
市原市
袖ヶ浦市
木更津市
君津市
富津市
山武郡芝山町
東金市
茂原市
長生郡一宮町
勝浦市
安房郡鋸南町
夷隅郡大多喜町
いすみ市
鴨川市
南房総市
館山市